三国志モバイル人物伝

楊戯Yang Xi

ヨウギ
(ヤウギ)

(?〜261)
蜀射声校尉

字は文然。[牛建]為郡武陽県の人。

若いときに巴西郡の程祁、巴郡の楊汰、蜀郡の張表とともに評判となった。楊戯は彼らのうち程祁が一番だとしていたが、諸葛亮は楊戯を評価していた。二十余歳のとき、益州の書佐から督軍従事に遷って軍中の裁判を仕切ったが、疑わしい事件にも公平な決断を下したと称賛され、丞相府の主簿に任命された。

丞相諸葛亮の没後は尚書右選部郎となったが、益州刺史蒋[王宛]の要請で益州治中従事に異動し、蒋[王宛]が大将軍になると、その東曹掾に任じられた。のち南中郎参軍に進んで[ライ]降都督の副将となり、建寧太守を兼ねた。病気を患ったため成都に召し返されて護軍・監軍に任じられ、のちに梓潼太守を兼任し、また中央に戻って射声校尉を拝命した。どの役職にあっても清潔・簡約で、煩瑣なことは言わなかった。

楊戯の性格は怠惰で、仕事でも手を抜いたりしたが、他人に媚びへつらったり必要以上に愛情を注ぐようなことはなかった。また事務上の指示を文書で与えるときも紙一枚を使い果たすことは少なく簡潔であった。旧友に対する情誼は固く、誠意と厚意を貫き通した。子供のときから巴西郡の韓儼や黎韜とは親友同士だったが、のちに韓儼は病気のため廃人同様になってしまい、黎韜は身持ちが悪く人々から見放された。しかし楊戯は彼らに配慮して生活を助けてやったりして友情は昔のままだった。また当時の人々は[言焦]周には才能が無いと考えて尊敬しなかったが、楊戯だけは彼を尊重して「我々の子孫は彼に劣るだろう」と述べていた。

楊戯はもともと姜維を尊敬していなかったので、いつも酒の席では彼を嘲笑していた。姜維は内心では彼を憎悪したが表面上では寛大な態度を繕っていた。延煕二十年(二五七)、大将軍姜維に従って芒水に出陣したが、軍が帰還したとき姜維の意向を受けた者が楊戯を告訴したので、楊戯は罷免されたうえ庶民に落とされ、景耀四年(二六一)に亡くなった。

楊戯は延煕四年(二四一)に『季漢輔臣賛』を著している。

【参照】韓儼 / 姜維 / 諸葛亮 / 蒋[王宛] / [言焦]周 / 張表 / 程祁 / 楊汰 / 黎韜 / 益州 / [牛建]為郡 / 益州郡建寧郡) / 梓潼郡 / 蜀郡 / 成都県 / 巴郡 / 巴西郡 / 武陽県 / 芒水 / [ライ]降 / 右選部郎 / 監軍 / 護軍 / 刺史 / 射声校尉 / 主簿 / 尚書 / 丞相 / 書佐 / 太守 / 大将軍 / 治中従事 / 東曹掾 / 督軍従事 / 南中郎参軍 / [ライ]降都督 / 府 / 季漢輔臣賛

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