三国志モバイル人物伝

[牛建]為Jian wei

ケンイ
(ケンヰ)

領城9
戸数137,713
人口411,378

むかし前漢武帝は蜀から道・青衣への道を開通するよう道県令に命じたが、費用がかさむばかりで完成せず、百姓の恨みが高じた。司馬相如が諫めたので、武帝は唐蒙を使者として道県令を逮捕し、斬首しようとした。このとき道県令が「成都を見られなかったのが残念だ」と言ったので、彼を成都に送って処刑した。唐蒙は石を斬って道路を切り開き、[牛建]為都尉に任命されて南夷道で政務を執った。のち郡治は南広、道、武陽と遷る。男の性質は仁徳・孝心に篤く、女は貞淑である。公孫述が蜀を領有したとき功曹朱遵は従わず殺され、また門を閉ざしたり隠棲する者があった。そのため光武帝は「士大夫の郡である」と評している。成都を去ること百五十里にあり長江を渡らなければならないが、昔の人は長さ一里半にもなる大橋を架けていた。夏になると水かさが増して橋が落ちてしまうので、毎年修理しなければならず、百姓は苦しんでいた。しかし建安二十一年(二一六)に太守李厳が天社山を開削して尋江に車道を通し、三つの渡し場を設けて橋を廃止したので官吏・人民はともに喜んだ。李厳はさらに役所を改築し、壮麗な展望台は益州名物となった。同二十四年に武陽県に黄龍が現れ、川には赤い水が九日も流れた。蜀漢では劉氏が勃興する瑞兆だと考えた。

【太守】任岐 / 閻行 / 李厳

【郡吏】宋遠 / 楊洪

【郡人】程瓊 / 費立 / 費緝

【領城】武陽 / 資中 / 牛[革卑] / 南安 / / 江陽 / 荷節符節) / 南広 / 漢安

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