三国志モバイル人物伝

姜維Jiang Wei

キョウイ
(キヤウヰ)

(202〜264)
蜀左大将軍・録尚書事・督中外軍事・仮節・涼州刺史・平襄侯

字は伯約。天水郡冀県の人。

父姜冏は天水郡功曹を務めていて、羌族の叛乱に遭遇したとき郡将を庇って戦死した。幼くして父を失ったので母と二人で暮らした。鄭玄流の学問を好み、郡に出仕して上計掾となり、さらに州に召されて従事に任じられた。父の功績により姜維は中郎となり、天水郡の軍事に参画することになった。

建興六年(二二八)、蜀の諸葛亮が祁山に現れたが、天水太守馬遵は領内巡察のため姜維・功曹梁緒・主簿尹賞・主記梁虔・郡吏上官子脩らを伴って外出中であった。しかし馬遵は、各県が寝返ったと聞くと姜維たちの忠誠心を疑い、夜陰に紛れて逃亡して上[圭β]県城に立て籠もった。姜維たちは追いかけて上[圭β]城に辿り着いたが城門は開かれなかった。そこで冀県に帰ったがやはり城門は閉ざされていた。やむなく諸葛亮に降参した。蜀の先鋒馬謖が街亭で敗北を喫し、諸葛亮は西県の住民千戸を連行して帰国したが、姜維は彼に同行したので母と生き別れになってしまう。諸葛亮は姜維を得て大いに満足し、留府長史張裔・参軍蒋[王宛]に「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮が行き届いている。李劭・馬良さえも彼には及ばないだろう。中虎歩軍五六千人を調練する役目は彼に委ね、そのあと宮廷に参内させて陛下にお目通りさせたいものだ」と述べ、彼を倉曹掾・奉義将軍・当陽亭侯とした。ときに二十七歳。

次第に昇進して中監軍・征西将軍となった。同十二年に諸葛亮が没すると成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍に任命され、諸軍を統率し、平襄侯に爵位を上げられた。延煕元年(二三八)に蒋[王宛]に随行して漢中に駐留、彼が大司馬に昇進するとその司馬となり、一軍を率いてたびたび西方に進出した。同六年、鎮西大将軍・涼州刺史に昇進し、同十年には衛将軍に任じられ、大将軍費[示韋]とともに録尚書事となる。同年、[シ文]山郡平康県の蛮族の叛乱を鎮圧。また隴西・南安・金城に進出して[シ兆]水にて魏の大将軍郭淮・夏侯霸と戦った。蛮王治無戴らが住民ともども降伏してきたので彼らを成都近くに移住させた。同十二年、仮に節を与えられる。ふたたび西平に出たが勝利できず帰陣した。

姜維は西方の風俗に詳しく軍才を自負していたので、羌族たちを仲間に引き入れれば西域を手中にできると考えていたが、費[示韋]は彼の計略は僥倖を恃んだものと危ぶみ、一万以上の大軍を与えなかった。しかし同十六年春に費[示韋]が亡くなると、その年の夏になって姜維は数万の大軍を催し、石営・董亭を経由して南安を包囲した。魏の雍州刺史陳泰が南安東南の洛門に到着すると、兵糧不足のため撤退した。

翌十七年、督中外軍事に任じられる。ふたたび隴西に出陣すると狄道県長李簡が降伏してきた。さらに襄武に進み、魏の将軍徐質を撃ち破って首を斬った。多くの敵兵を降伏させ、河関・狄道・臨[シ兆]の三県の住民を連行して蜀の民とした。

十八年、車騎将軍夏侯霸とともに狄道に進出、[シ兆]水の西で雍州刺史王経を撃ち破って数万人を殺し、さらに狄道城を包囲した。魏の征西将軍陳泰が救援のため駆け付けてきたので退却、鍾題に駐屯した。

十九年春、任地において大将軍を拝命した。鎮西大将軍胡済と連繋して上[圭β]県で合流しようとしたが胡済が現れず、段谷にて魏の[登β]艾に大敗して多数の死者を出した。そのため人々は彼を恨んで西方で離叛が相次いだ。姜維は失策を認めて降格を願い出、後将軍・行大将軍事となった。

二十年、魏の征東大将軍諸葛誕が淮南において叛乱したので、魏の軍勢が東方に向かって手薄になった。姜維は軍勢数万を率いて駱谷を通り沈嶺に着陣した。その北にあった長城には大量の食料を貯蔵してあったので、魏の大将軍司馬望がその守備を固め、また隴右から[登β]艾が駆け付けてきた。姜維は芒水に進んで陣営を築き何度も挑発したが、司馬望・[登β]艾は渭水沿岸に要害を築いて守りを固めるばかりだった。そのまま越年し、諸葛誕が滅ぼされたと聞いて撤退した。大将軍に復帰した。

漢中の防衛について建議して述べるに「守備隊を漢城・楽城まで下げ、敵を深く侵入させて挟み撃ちにすれば大勝利を収められます」と。この計略が認められ、督漢中胡済は後方の漢寿に下がり、監軍王含が楽城、護軍蒋斌が漢城を守ることになった。

景耀五年(二六二)、侯和に出陣したが[登β]艾に敗れ、退いて沓中に駐屯した。こうして姜維は毎年のように軍勢を動かしたが勝利を得られず、もともと他国の人だったので孤立を深めていった。しかも宦官黄皓が右大将軍閻宇と結託し、姜維の失脚を画策していた。あるとき姜維は成都に帰り、黄皓を取り除くべきと皇帝劉禅に進言した。しかし劉禅は聞き入れず、黄皓を姜維のもとに送って詫びを入れさせた。姜維は身の危険を感じ、黄皓に屯田したいと告げて成都を去り、そのまま帰ることができなくなった。

翌六年、魏の鍾会が大軍動員を準備していると知り、張翼・廖化に陽安関・陰平橋を守らせるよう本国に要請した。しかし黄皓は巫女の言葉を信じて敵が来ないと考え、劉禅に取り上げないよう告げ、その経緯は誰にも知らされなかった。

やがて鍾会が駱谷に出陣し、[登β]艾が沓中に進軍して、ようやく劉禅は、右車騎将軍廖化に沓中の姜維を支援させ、左車騎将軍張翼・輔国大将軍董厥らを陽安関に向かわせた。魏の諸葛諸が建威に入ったと聞いて姜維はこれを防いだが、一ヶ月ほどして[登β]艾に攻撃されて陰平まで退いた。一方鍾会が漢城・陽安関を陥落させたので、陰平を放棄して剣閣まで後退した。ここで張翼・董厥と合流して抵抗したので、鍾会は進むことができず姜維に手紙を送って懐柔しようとしたが、姜維は返答しなかった。

しかし[登β]艾が険路を強行して景谷道を進み、緜竹まで侵入して諸葛瞻を撃破した。そこで皇帝劉禅は[登β]艾に降伏した。姜維は諸葛瞻の敗北以来、劉禅の動向に注目していたが、降伏せよとの勅命を受けたので武装を解除し、鍾会のもとに出頭した。将兵はみな怒りにふるえ、刀を抜いて石を叩き割った。鍾会は「なぜ来るのが遅れたのか」となじったが、姜維が「今でも早すぎたと思っております」と答えたので、彼を立派な人物だと思った。

鍾会は姜維らを手厚く持てなし、彼らの官印・節・車蓋などを全て返してやった。鍾会は外出時にはつねに姜維を馬車に同乗させたり、室内では同じ敷物に座らせたりして寵愛し、長史杜預に「姜維の立派さは諸葛誕・夏侯玄でも及ばないだろう」と言った。姜維は鍾会に叛逆の意図があると見抜き、それを利用すれば蜀を再興できるだろうと考えた。そこで告げるに「貴方は毋丘倹・諸葛誕の叛乱を鎮圧し、また蜀を平定して絶大な手柄を立てました。しかし平和な時代が来ると韓信・大夫種のように誅殺されますぞ。世俗を棄てて仙人の暮らしをなさいませ」、鍾会「もっともであるが私には浮世離れしたことはできない。他に手段はあるだろうか」、姜維「では貴方の才能を用いるだけのことです」と。鍾会は[登β]艾に冤罪を被せて更迭、姜維らを率いて成都入城を果たすと益州牧を自称して魏に叛逆し、姜維に軍勢五万を与えた。魏の将兵は怒り、鍾会とともに姜維を殺害した。

【参照】尹賞 / 閻宇 / 王含 / 王経 / 夏侯玄 / 夏侯霸 / 郭淮 / 毋丘倹 / 韓信 / 姜冏 / 胡済 / 黄皓 / 司馬望 / 諸葛諸 / 諸葛瞻 / 諸葛誕 / 諸葛亮 / 上官子脩 / 蒋[王宛] / 蒋斌 / 鍾会 / 大夫種 / 治無戴 / 張裔 / 張翼 / 陳泰 / 鄭玄 / 杜預 / 董厥 / [登β]艾 / 馬遵 / 馬謖 / 馬良 / 費[示韋] / 李劭 / 劉禅 / 梁虔 / 梁諸 / 廖化 / 渭水 / 陰平郡 / 陰平橋 / 益州 / 街泉亭街亭) / 成固県楽城県) / [ベン]陽県漢城県) / 葭萌県漢寿県) / 漢中郡 / 祁山 / 冀県 / 魏 / 金城郡 / 景谷道 / 建威 / 剣閣 / 侯和 / 上[圭β]県 / 鍾題 / 蜀 / 沈嶺 / 西県 / 成都県 / 西平 / 石営 / 段谷 / 長城 / 狄道県 / 天水郡 / [シ兆]水 / 董亭 / 沓中 / 当陽亭 / 南安郡 / [シ文]山郡 / 平康県 / 平襄県 / 芒水 / 緜竹県 / 雍州 / 陽安関 / 駱谷 / 涼州 / 隴西郡 / 隴右 / 淮南 / 右監軍 / 右車騎将軍 / 右大将軍 / 衛将軍 / 監軍 / 侯 / 功曹従事 / 護軍 / 後将軍 / 左車騎将軍 / 左大将軍 / 参軍 / 刺史 / 司馬 / 従事 / 主記 / 主簿 / 上計掾 / 征西将軍 / 征東大将軍め倉曹掾 / 大司馬 / 太守 / 大将軍 / 中監軍 / 中郎 / 長史 / 鎮西大将軍 / 亭侯 / 督 / 奉義将軍 / 輔漢将軍 / 牧 / 輔国大将軍 / 留府長史 / 録尚書事 / 仮節(仮の節) / 宦官 / 羌族 / 行 / 車蓋 / 中虎歩軍 / 屯田 / 巫女

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