三国志モバイル人物伝

蔡瑁Cai Mao

サイボウ
(サイバウ)

(?〜?)
漢長水校尉・漢陽亭侯

字は徳珪。襄陽の人。蔡諷の子《襄陽記》。

蔡氏の邸宅は蔡洲のほとりにあり、家屋の造りは非常に立派で、四方の垣根はみな青石でもって角を作っていた。婢妾は数百人もおり、田地は別に四・五十ヶ所もあった。蔡氏一門がもっとも勢力があったのは後漢末期、蔡諷の時代で、彼の姉は大尉張温に嫁ぎ、長女は黄承彦の妻となり、末女は劉表の後妻となった。蔡瑁は末女の弟である。蔡瑁は豪壮な性格で自尊心が強かったという《襄陽記》。

劉表が荊州刺史となったとき、長沙太守蘇代や華容県長貝羽らはおのおの軍勢を擁して彼を受け入れようとしなかった。そこで劉表は宜城まで行き、蔡瑁と[カイ]越・[カイ]良を招いて協力を求めた。その計略によって荊州を平定することができた《劉表伝》。蔡瑁は劉表のもとで江夏・南郡・章陵太守、鎮南将軍軍師を歴任した《襄陽記》。

蔡瑁の姉が劉表とのあいだに子劉[王宗]を儲けると、蔡瑁は外甥張允とともに劉表に可愛がられ、劉[王宗]とも親密になった《後漢書劉表伝》。劉[王宗]に跡目を継がせようと画策して、姉の蔡氏は内側にいてその美貌を称賛し、蔡瑁・張允は外側にいて人徳を感歎してみせた《襄陽記》。劉表の病が危篤となると、劉[王宗]の異母兄劉[王奇]が任地から帰ってきたが、蔡瑁は父子の情愛によって劉[王奇]が跡目相続するのではないかと恐れ、張允とともに彼を戸外で追い返した《劉表伝》。

劉表の没後、荊州を引き継いだ劉[王宗]は、荊州に侵出してきた曹操に帰服した《劉表伝》。蔡瑁は若いころ曹操と親交を結んだことがあったので、曹操は彼の邸宅を訪れて寝室に入り、彼とその妻子に向かって「徳珪よ、覚えているかい?むかし一緒に梁孟星に会いに行ったのに孟星が会おうとしなかったことを。今ここに来ているそうだが、何の面目あって卿に顔を合わせられるんだろうね」と語った《襄陽記》。

曹操の従事中郎、司馬を経て、長水校尉まで官位は昇り、漢陽亭侯に封ぜられた《襄陽記》。曹操は旧知として待遇したが、当時の人々は彼を軽蔑した。彼が劉[王宗]を助けて劉[王奇]を貶めたのが咎められたのである《襄陽記》。蔡瑁の邸宅の南に彼の塚があるが、塚の前には石を刻んで大鹿をかたどったものがある。頭部は非常に大きく、高さは九尺にもなり、造りはきわめて精巧である《襄陽記》。

一説に[カイ]越とともに劉備の命を狙ったというが疑わしい《先主伝》。

【参照】[カイ]越 / [カイ]良 / 黄承彦 / 蔡諷 / 蔡氏(劉表妻) / 蘇代 / 曹操 / 張允 / 張温 / 貝羽 / 劉[王奇] / 劉[王宗] / 劉表 / 梁鵠(梁孟星) / 華容県 / 漢陽亭 / 宜城県 / 荊州 / 江夏郡 / 蔡洲 / 襄陽県 / 章陵郡 / 長沙郡 / 南郡 / 軍師 / 県長 / 刺史 / 司馬 / 従事中郎 / 大尉 / 太守 / 長水校尉 / 鎮南将軍 / 亭侯

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