三国志モバイル人物伝

梁鵠Liang Hu

リョウコク
(リヤウコク)

(?〜?)
漢仮司馬

字は孟黄。安定烏氏の人で、字は「孟皇」とも書く《武帝紀集解》。『襄陽記』に見える「梁孟星」も同人と思われる。

霊帝は書を好んだので、世間には書を得意とする者が多かった。なかでも師宜官がもっとも秀で、その才能を自負しており、いつも文字を書いたあとは木簡を削ったり焼いたりして、筆跡が盗まれないようにしていた。梁鵠はあらかじめ沢山の木簡を作っておいて師宜官に酒を振る舞い、彼が酔っぱらったのを見計らって木簡を盗み取った。こうして書法を研究したのである《武帝紀》。梁鵠は若いころから書を好んでいたが、また師宜官の八分の書体を会得して有名になり、孝廉に推挙されて郎となり、鴻都門下(学問所)を歴て侍中となり、選部尚書に昇った《武帝紀集解》。

曹操は洛陽県令になりたいと思っていたが、梁鵠は彼を洛陽北部尉に任じた。のちに梁鵠は荊州牧劉表を頼ったが、曹操は荊州を平定すると賞金を出して梁鵠を探し求めた。梁鵠は恐怖を抱き、自縛して軍門に出頭した。曹操は彼を仮の司馬として秘書の任にあて、書によって功績を立てさせた。曹操はいつも帳のなかの壁に釘で打ち付けて、彼の書を掲げて師宜官の書より優れていると言って愛玩した。魏の宮殿の額はみな梁鵠が書いたものである《武帝紀》。

当時、邯鄲淳も王次仲の書法を会得していたが、梁鵠の筆遣いの勢いよさには敵わない。衛恒の『四体書勢』は、邯鄲淳は繊細な字、梁鵠は雄大な字をうまく書いたと述べている《武帝紀集解》。

【参照】衛恒 / 王次仲 / 邯鄲淳 / 師宜官 / 曹操 / 劉宏(霊帝) / 劉表 / 安定郡 / 烏枝県(烏氏) / 荊州 / 洛陽県 / 県令 / 鴻都門下 / 孝廉 / 侍中 / 司馬 / 尚書 / 選部尚書 / 牧 / 洛陽北部尉 / 郎 / 四体書勢 / 襄陽記 / 書 / 八分体

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