三国志モバイル人物伝

麋芳Mi Fang

ビホウ
(ビハウ)

(?〜?)
漢南郡太守

字は子方《楊戯伝》。東海郡[月句]の人。麋竺の弟である《麋竺伝》。

呂布が徐州を襲撃して劉備を追い出したのち、曹操は兄麋竺を[エイ]郡太守に、麋芳を彭城相に任じた。しかし麋芳らは官を棄てて劉備に付き従った《麋竺伝》。

のち南郡太守として将軍士仁とともに呂蒙に備えたが、いずれも関羽に軽んじられていることを恨み、関羽の出陣にあたっても軍需物資を供給するだけで全力支援はしなかった。そこで関羽は「帰還したらやつらを始末するのだ」と言った。麋芳・士仁は恐怖を抱いて不安となった《関羽伝》。またかつて南郡城内で失火があり数多くの兵器が焼失し、そのことで関羽は麋芳を責め立てたことがある。それを聞いた孫権が彼を誘ったので、麋芳は密かに孫権と通じるようになった《呂蒙伝》。

呂蒙は南郡の守りが固かったので病気と称して建業に引き揚げた。そこで関羽は南郡の守備兵を北方の戦線に投入した。呂蒙は密かに軍勢を率いて公安に進み、士仁を降服させた。呂蒙の軍勢が南郡城下に迫ると、麋芳は牛肉と酒を用意して出迎えた《呂蒙伝》。以後、麋芳は呉の部将として活動する。こうして関羽は追い詰められ、孫権に斬られたのである。

あるとき船に乗って虞翻と一緒に出かけたことがあった。麋芳の船には人が多く乗っており、水先案内人が虞翻の船に「将軍の船を避けよ」と言ったところ、虞翻は声を荒げて「忠誠と信義を失っているのにどうやって君主に仕えるつもりか。二つの城を傾けておりながら将軍などと称してよいものか」と言った。麋芳は戸を閉ざして返答しなかったが、急いで虞翻の船を避けた。のちに虞翻が車に乗って出かけたとき、麋芳の営舎を通り抜けようとしたが、役人は門を閉ざしたので車を通すことができなかった。虞翻はまた怒って「閉ざすべきとき開き、開くべきとき閉ざしている。もののやりようが分かっているのか」と言うと、麋芳は慚愧の色を見せた《虞翻伝》。

かつて呉の部将だった晋宗は魏に寝返ってたびたび呉を侵略していた。黄武二年(二二三)六月、麋芳は将軍賀斉・劉邵・鮮于丹とともに[キ]春郡を攻撃し、劉邵らが晋宗を捕虜とした《呉主・賀斉伝》。

【参照】賀斉 / 関羽 / 虞翻 / 士仁 / 晋宗 / 鮮于丹 / 曹操 / 孫権 / 麋竺 / 劉邵 / 劉備 / 呂布 / 呂蒙 / [エイ]郡 / 魏 / [キ]春郡 / [月句]県 / 建業県 / 呉 / 公安県 / 徐州 / 東海郡 / 南郡 / 彭城国 / 相 / 太守

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