三国志モバイル人物伝

張翼Zhang Yi

チョウヨク
(チヤウヨク)

(?〜264)
蜀左車騎将軍・仮節・督建威・冀州刺史・都亭侯

字は伯恭。[牛建]為郡武陽県の人。高祖父は漢の司徒張浩、曾祖父は広陵太守張綱である。

劉備が益州を平定して益州牧となったとき書佐に任じられる。建安の末年に孝廉に推挙され、江陽県長となり、のち[フ]陵県令、梓潼、広漢、蜀郡太守と栄転していった。

建興九年(二三一)、張翼は[ライ]降都督・綏南中郎将に任じられたが、その性格から、法律を厳格に適用するばかりで異民族の機嫌を取ろうとしなかった。そのため異民族の頭目劉冑が叛乱を起こし、張翼は軍を率いて鎮圧にあたったが、作戦途中で中央からお召しがかかった。部下たちは「急いで謝罪の意を示すべきです」と勧めたが、張翼は「いや、わしに蛮族懐柔の能力がないので任を解かれるだけのことだ。後任者のために兵糧の輸送・蓄積を行って置くべきで、免職を恐れて公務を投げ出すわけにはいかぬ」と言い、後任者の馬忠が来るまで指揮を採り続けた。丞相諸葛亮はそれを聞いて感心した。

諸葛亮は北伐にあたって張翼を前軍都督に任じ、扶風太守を兼ねさせた。諸葛亮が陣没すると前領軍に移り、劉冑討伐の功績により関内侯に封じられる。延煕元年(二三八)、中央に入って尚書に任じられ、やがて督建威・仮節を加えられ、征西大将軍・都亭侯となった。同十八年、衛将軍姜維とともに成都に帰還した。

姜維が再び北伐を提案したとき、ただ一人張翼は国家の弱小と民衆の疲労を理由に反対した。姜維はこれを聞かず、張翼を鎮南大将軍に任じ、彼らを率いて北征の軍を起こした。姜維らは狄道に至って魏の雍州刺史王経を大いに破ったが、張翼は「追撃すべきではありません。進めば武功に傷が付きますぞ」と言った。姜維は腹を立てて聞かず、狄道城を包囲したが陥落させられなかった。こうして姜維は内心では張翼を疎んじるようになったが、遠征のときはいつも彼を引き連れ、張翼もやむを得ず従っていた。

景耀二年(二五九)に左車騎将軍・冀州刺史に昇進する。同六年、姜維に従って剣閣に駐屯し、ともに[フ]城にいた魏の鍾会に帰服した。ところが翌年の正月、鍾会は成都で叛逆し、張翼はその混乱の中で兵士に殺された。

【参照】王経 / 姜維 / 諸葛亮 / 鍾会 / 張浩 / 張綱 / 馬忠 / 劉冑 / 劉備 / 益州 / 冀州 / 魏 / 剣閣 / 建威 / [牛建]為郡 / 広漢郡 / 江陽県 / 広陵郡 / 梓潼郡 / 蜀郡 / 成都県 / 狄道県 / [フ]県 / 扶風郡 / 武陽県 / [フ]陵県 / 雍州 / [ライ]降 / 衛将軍 / 関内侯 / 県長 / 県令 / 孝廉 / 左車騎将軍 / 刺史 / 司徒 / 尚書 / 丞相 / 書佐 / 綏南中郎将 / 征西大将軍 / 前軍都督 / 前領軍 / 太守 / 鎮南大将軍 / 督 / 都亭侯 / 牧 / [ライ]降都督 / 仮節 / 推挙

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