三国志モバイル人物伝

魏延Wei Yan

ギエン

(?〜234)
蜀使持節・前軍師・征西大将軍・涼州刺史・南鄭侯

字は文長。義陽郡の人。

劉備の益州攻略で戦功を挙げ、一部隊長から牙門将軍に昇進した。劉備が漢中王になると首都を成都に定めたので、漢中を守る将軍が必要となった。人々は張飛こそが相応しいと考え、張飛自身もそう自負していた。ところが魏延が抜擢され督漢中・鎮遠将軍・漢中太守に任じられると、人々はみな驚いた。劉備は群臣の居並ぶなか魏延に尋ねるに「君はこの重任をどう考えているのか」。魏延は答えて「曹操が中国全土の軍勢を催してきたなら全力で防ぎます。曹操の副将が十万の軍勢で来たなら呑み込んでやります」。この言葉に劉備は頷いて群臣も感嘆した。

蜀が建国されると鎮北将軍に昇任し、建興元年(二二三)には都亭侯に封じられる。同五年、諸葛亮が漢中に駐屯すると督前部となり、丞相司馬・涼州刺史を兼任した。同八年に羌中に西進、陽谿にて魏の費瑤・郭淮と戦って大いに撃破した。前軍師・征西大将軍・仮節となり、南鄭侯に封じられる。

魏延はつねづね、軍勢一万を率いて山道づたいに長安を奇襲する作戦を採りたいと考えていた。しかし諸葛亮が許可しなかったので、魏延はいつも彼が臆病だから自分の才能が発揮できないと歎いていた。魏延は人並み外れて勇猛だったうえ誇り高い性格だったので、人々はみな彼にへりくだったが、ただ楊儀だけが頭を下げなかったので、二人は互いに憎しみ合っていた。

建興十二年(二三四)の秋、諸葛亮が北伐の陣中で病を発すると、魏延が殿軍を担当して撤退するよう作戦が示された。諸葛亮が没すると、楊儀は費[示韋]を遣わして魏延の意向を探らせた。魏延は「丞相(諸葛亮)が亡くとも私がいるではないか。丞相の直属である貴方たちは御遺体を担いで帰国なされ。私は諸軍の指揮を引き継いで敵を討伐する所存だ」と言った。費[示韋]が帰ったあと魏延が楊儀たちの動向を調べさせると、諸葛亮の軍勢はみな撤退を始めていたので大いに腹を立て、先回りして彼らが帰国できないようにした。

魏延と楊儀は互いに相手が叛逆したと皇帝劉禅に訴えた。劉禅は量りかねて董允・蒋[王宛]に問うと、二人とも魏延が疑わしいと言上した。魏延は先に南谷口に到着して楊儀の軍勢を迎え撃ったが、楊儀の先鋒王平が「丞相が亡くなられたばかりなのに、なぜそんなことをするのだ」と怒鳴りつけると、魏延の部下たちは魏延の非を知っていたのでみな去った。魏延は力を失って漢中に逃げようとしたが、追い付いた馬岱に斬殺された。かくて魏延の三族は処刑された。

【参照】王平 / 郭淮 / 諸葛亮 / 蒋[王宛] / 曹操 / 張飛 / 董允 / 馬岱 / 費[示韋] / 費瑤 / 楊儀 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 漢中郡 / 魏 / 義陽郡 / 羌中 / 蜀 / 成都県 / 長安県 / 都亭 / 南谷口 / 南鄭県 / 陽谿 / 涼州 / 王 / 仮節 / 牙門将軍 / 侯 / 刺史 / 丞相 / 丞相司馬 / 征西大将軍 / 前軍師 / 太守 / 鎮遠将軍 / 鎮北将軍 / 亭侯 / 督漢中 / 督前部

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