三国志モバイル人物伝

楊儀Yang Yi

ヨウギ
(ヤウギ)

(?〜235)
蜀中軍師・丞相長史・綏軍将軍

字は威公。襄陽郡の人。

建安年間に魏の荊州刺史傅羣の主簿となったが彼に背いて関羽のもとに走った。関羽は楊儀を襄陽郡の功曹に任じ、劉備への使者として益州に派遣した。劉備は彼と軍事や国政について話し合い、大いに気に入ったので左将軍(劉備)の兵曹掾に任命した。劉備が漢中王になると尚書に抜擢される。しかし上司である尚書令劉巴と折り合いが悪く、弘農太守に左遷された。当時、弘農は魏の領有するところだったので、太守といっても名ばかりであった。

建興三年(二二五)、丞相諸葛亮が南中鎮圧の軍を起こすと彼を参軍に任じ、軍の事務を司らせた。同五年、諸葛亮に随行して漢中に駐留。同八年には長史・綏軍将軍に昇進する。楊儀は部隊編成や兵糧の需要を計算したりしたが、行き詰まることもなく短時間で仕事を終えた。諸葛亮は彼の才幹を愛し、また魏延の武勇を頼りとしていたので、その二人がつねにいがみ合っていることを非常に残念がっていたが、どちらかを辞めさせようとはしなかった。

建興十二年(二三四)に丞相諸葛亮が陣没したのち、命令違反をした魏延を誅伐したことで、楊儀は自らの功績が莫大であり、自分が諸葛亮の仕事を引き継ぐべきであると考えるようになる。しかし諸葛亮は生前、楊儀は心が狭い性格なので蒋[王宛]に後事を任せたいと周囲に語っていた。はたして蒋[王宛]が尚書令・益州刺史に任じられ、楊儀は実際の仕事がない中軍師の官職を与えられただけであった。

蒋[王宛]はかつて楊儀が尚書だったころ尚書郎(見習い)に過ぎず、のち諸葛亮の遠征にはいつも楊儀が活躍していたので、年齢・官位・実績において自分が勝っていると思っていた楊儀は不満を抱いた。彼の怨念と憤怒は声色や顔色にあらわれ、心の底から沸き上がる溜息や舌打ちは周囲の人々を不安に陥れた。ただ後軍師費[示韋]だけが彼を気遣い、不満を聞いてやった。すると楊儀は「丞相が亡くなられたとき曹魏に降っていれば後悔せずに済んだのに」と言ってしまい、費[示韋]はこの言葉を上奏した。

建興十三年、庶民に落とされ漢嘉郡に流された。楊儀は配所で朝廷に上書して、激烈な誹謗の言葉を吐いたので、郡役人が彼を逮捕しようとやってきた。楊儀は自殺した。

【参照】関羽 / 魏延 / 諸葛亮 / 蒋[王宛] / 費[示韋] / 傅羣 / 劉巴 / 劉備 / 益州 / 漢嘉郡 / 漢中郡 / 魏(曹魏) / 荊州 / 弘農郡 / 襄陽郡 / 南中 / 王 / 功曹 / 後軍師 / 左将軍 / 左将軍兵曹掾 / 参軍 / 刺史 / 主簿 / 尚書 / 丞相 / 尚書令 / 尚書郎 / 綏軍将軍 / 太守 / 中軍師 / 長史

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