三国志モバイル人物伝

呉班Wu Ban

ゴハン

(?〜?)
蜀驃騎将軍・仮節・緜竹侯

字は元雄。陳留郡の人。呉匡の子、呉壱の族弟にあたる《楊戯伝》。あるいは従弟ともいう《華陽国志》。

豪快任侠でもって評価され、官位はつねに呉壱に次ぎ、先主(劉備)の時代、領軍まで昇った《楊戯伝》。

章武元年(二二一)七月、先主が諸軍を率いて呉を討伐したとき、呉将陸遜・李異・劉阿らは巫・[シ]帰に布陣していた。呉班は馮習とともに巫の方面から攻撃をかけて李異らを撃破し、[シ]帰に陣を進めた。翌二年正月、先主本隊が[シ]帰に進駐すると、呉班は陳式とともに水軍を率いて夷陵へ進み、長江を東西から挟んで駐屯した《先主伝》。

先主は諸将を率いて[シ]帰を進発、夷道の[コウ]亭に進駐した。呉軍は夷陵でこれに対抗した《先主伝》。劉備は呉班に数千人を授けて平地に布陣させ、戦いを挑ませた。呉の諸将はこれを攻撃しようとしたが、陸遜は「あれにはきっと裏がある。まずは様子を見てみよう」と言った。劉備は計略の失敗を悟り、伏兵八千人を谷間から引き揚げさせた。陸遜は言った。「諸君に呉班攻撃を許可しなかったのは、推理してみれば、企みのあるのが確実だったからだ。」《陸遜伝》

建興九年(二三一)、丞相諸葛亮が祁山に進出すると、魏の司馬懿は上[圭β]の東でこれを防ぎ、諸葛亮が撤退を始めると鹵城まで追跡してきた。五月辛巳、司馬懿は張[合β]に(祁山の)南方を固める何平を攻撃させ、自分は中央の道を辿って諸葛亮に迫った。呉班は諸葛亮の命を受けて、魏延・高翔とともに迎撃、これを大破した。兜首三千級、鉄鎧五千領、角弩三千一百張を手に入れた《諸葛亮伝》。

この戦いのとき、中都護李平(李厳)が兵糧輸送を怠ったので、諸葛亮は諸将と連名で李平を弾劾した。呉班も呉壱・高翔に次いで「督後部・後将軍・安楽亭侯の臣呉班」と名を連ねている《李厳伝》。

呉班は後主(劉禅)の時代を通じて驃騎将軍まで昇進し、仮節を与えられ、緜竹侯に封ぜられた《楊戯伝》。一説に驃騎将軍・持節・郷侯になったともある《華陽国志》。

【参照】王平何平) / 魏延 / 呉壱 / 呉匡 / 高翔 / 司馬懿 / 諸葛亮 / 張[合β] / 陳式 / 馮習 / 李異 / 李厳 / 陸遜 / 劉阿 / 劉禅 / 劉備 / 安楽亭 / 夷道県 / 夷陵県 / 魏 / 祁山 / 呉 / [コウ]亭 / [シ]帰県 / 上[圭β]県 / 長江 / 陳留郡 / 巫県 / 緜竹県 / 鹵城 / 郷侯 / 侯 / 後将軍 / 丞相 / 中都護 / 亭侯 / 督後部 / 驃騎将軍 / 領軍 / 角弩 / 仮節 / 持節

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