三国志モバイル人物伝

甘寧Gan Ning

カンネイ

(?〜215)
漢折衝将軍・西陵太守

字は興霸。巴郡臨江の人。祖先は南陽の人であったが巴郡に旅住まいしたのである。

甘寧は役人となって計掾に推挙され、蜀郡の郡丞に任じられたが、しばらくして官職を棄てて家に帰った。若いころから気力にあふれて遊侠を好み、軽薄な少年たちを集めて彼らの渠帥(親分)になっていた。この連中は手に手に弓弩を持って群れ集い、背中に羽根飾りを腰に鈴を付けたので、人々は鈴の音を聞いただけで甘寧だと分かった。

任侠気取りで人を殺したり、逃亡者をかくまったりして郡中に名を知られ、出入りの際、陸路なら車騎を並べ、水上なら脚早の船を連ね、付き従う者たちは彩り鮮やかな刺繍を身に付けた。行く先々で道路を輝かせ、停泊するときは絹錦の綱でもって船を繋ぎ、出発するときはそれを切り捨てて豪奢ぶりを見せ付けた。他人と出くわしたとき、属城の長吏ほどの者が盛大にもてなして初めて満足するが、そうでなければ、配下の者を放ってその人の財産を奪わせた。長吏の領内で犯罪があれば、その(長吏の)怠慢や罪過を追及した。

こうして十年余りも経ってから乱暴を働くのをやめ、少しは諸子の学問を読むようになり、劉表に身を寄せて南陽に住まいしたが、任用されず、後日改めて黄祖に身を寄せた。しかし黄祖もまた彼を凡人として食わせるだけだった。もともと劉表に身を寄せたとき食客八百人を連れていたが、劉表は儒者であったため軍事に親しまず、当時は英雄たちがそれぞれ挙兵していたので、甘寧は劉表を観察して、この情勢から言えば何も成功させられまいと考え、一日で土崩して巻き添えを受けるのではないかと心配した。そこで東方へ向かって呉に入ろうとしたが、黄祖が夏口にいたため通過することができず、そのまま三年間も滞在したのであった。

黄祖軍が孫権に敗れて逃走したとき、追撃は厳しいものであった。甘寧は射術に巧みだったので兵を率いて後詰めを引き受け、孫権の校尉凌操を射殺した。黄祖はそのおかげで逃げ延びることができたが、甘寧への待遇は以前と変わりなかった。黄祖の都督蘇飛がたびたび甘寧を推薦しても、黄祖は任用しようとせず、人をやって甘寧の食客を手懐けたので、食客たちは次第に数を減らしていった。甘寧は亡命したく思ったが逮捕されまいかと心配して、一人で鬱々としてなすすべを知らなかった。

蘇飛が甘寧の気持ちを知って彼を酒宴に招き、「吾が子(あなた)を[朱β]の県長にするよう言上してやろう」と言ったので、甘寧は「幸甚でございます」と感謝を尽くした。黄祖は蘇飛の言上を聞き入れた。甘寧は[朱β]県に赴任すると、寝返った食客たちを呼び返し、義勇兵を合わせて数百人を手に入れた。こうして甘寧は呉に身を寄せたのである。

周瑜・呂蒙はみな甘寧を推挙し、孫権も旧臣たちとは別格の待遇を与えた。甘寧は計略を述べた。「いま漢の国祚は日ごとに衰え、曹操はいよいよ傲慢になっており、終いに簒奪をなすでありましょう。南荊の地は、誠に国土を西に伸ばす地勢であります。甘寧は劉表を観察したことがありますが、思慮が浅い上に息子たちも劣っております。至尊(孫権)におかれては曹操より先に略取されますよう。黄祖は耄碌して資金食糧に乏しく、金儲けに走って官吏兵士の恨みを買っており、艦船も兵器も整備されておりません。農務をなおざりにして軍紀は守られず、いま出陣なされれば必ず打ち破ることができましょう」。

このとき張昭が座中にあり「呉の城下に不穏な動きがあり、軍が出征すれば異変が起こるのではないかと心配されます」と渋ったので、甘寧は「国家(孫権)は蕭何の任務を君に委ねられたのです。留守を任されて杞憂するばかりでは、どうして古人を慕うことができしょうか」と反駁した。孫権は甘寧に酌を進めながら「興霸よ、今年の軍事はこの酒のように卿(あなた)にお任せしよう。卿は黄祖に勝つことだけをお考えになればよく、張長史の言葉を気にすることはないのだよ」と言い、ついに征西の軍を催して黄祖を捕らえたのである。

もともと孫権は二つの箱を作り、黄祖と蘇飛の首級を収めるつもりであったが、蘇飛が人をやって我が身の危険を甘寧に知らせると、甘寧は「蘇飛から言ってこなくても忘れたりするものか」と言い、孫権が諸将らのために酒宴を開いたとき、甘寧が席を立って叩頭し、血と涙にまみれながら「もし蘇飛と出会わなければ甘寧は死体になって谷間に捨てられるところでございました。その首をお預けくだされ。もし蘇飛が逃亡を企てたなら、代わりに甘寧の首を箱に収めていただきましょう」と蘇飛の助命を歎願した。孫権は蘇飛を赦免してやり、また甘寧に兵士を授けて当口に屯させた。

その後、周瑜に随行して烏林で曹公(曹操)を撃破し、南郡で曹仁を攻囲した。まだ陥落してないとき、甘寧はまず直行して夷陵を奪取すべきとの計略を立て、出陣してすぐ城を落とし、入城して守りを固めた。配下には兵士数百人のほか、新附の人数を合わせて千人足らずしかいなかったが、曹仁の派遣した五・六千人の軍勢が甘寧を包囲した。攻撃は何日も続き、敵が高楼を設けて雨の如く城内に矢を射かけてきたので、兵士たちはみな恐怖したが、甘寧だけは普段通りに談笑していた。使者を出して周瑜に知らせ、周瑜が諸将を率いてきたので包囲から解放された。

のちに魯粛に随行して益陽を守り、関羽と対峙した。関羽は軍勢三万人を号しつつ、精鋭五千人を選抜して県の上流十里余りのところにある浅瀬に投入し、夜中に渡るぞと喧伝した。魯粛が諸将と協議したとき、甘寧は「吾に五百人をお貸しくだされ。吾がそこに対処すれば関羽は渡ろうといたしますまい。もし渡れば吾の捕虜になりますからな」と言った。甘寧は兵士三百人しか持っていなかったので、魯粛は精鋭千人を貸してやった。甘寧が夜中に出陣すると、関羽はそれを聞いて渡ろうとせず、逆茂木の陣営を作るだけだった。孫権は甘寧の功績を評価して西陵太守に任じ、陽新・下雉の二県を宰領させた。

皖城攻略に従軍したときは升城督となり、練り絹を手にして城壁に身を委ね、官吏兵士を先導した。ついに敵を打ち破って(城将の)朱光を捕らえ、論功の結果、呂蒙が第一、甘寧はそれに次ぐものとされ、折衝将軍を拝命した。

ここでは本伝に従ったが、皖城攻略を関羽との対戦以前とするのが正しい。

曹公が濡須に侵出してきたときは前部督となり、出陣して敵の先鋒を伐つよう命ぜられた。孫権が格別に賜った米や酒、多くの料理を、甘寧は百人余りの配下に選り分けた。食事が終わると、甘寧は銀杯で酒を二杯呑み、そのあと都督に酌をしたが、都督はうつ伏せたまますぐには承けようとしなかった。甘寧は白刃を抜いて膝上に置き、「卿が至尊から受けている待遇は甘寧と比べてどうでしょうか?甘寧さえ死を惜しまないのに卿だけがどうして死を惜しまれるのですか?」と叱りつけた。都督は甘寧の険しい顔色を見ると、すぐ体を起こして杯を受け取り、兵士に銀杯一杯づつ酌をしてまわった。

二更の刻、馬に枚を含ませて出陣し、ひたすら曹公の陣営を目指し、逆茂木を抜いて城塁を乗り越え、斬首すること数十級に昇った。北軍は驚いて太鼓を打ち鳴らし、松明を星の如く掲げたが、甘寧はすでに本営に帰還しており、鼓吹を鳴らして万歳を称えた。夜分を押して孫権に拝謁すると、孫権は「年寄りを驚かせるには充分であったかのう?少しは卿の大胆さを見られたぞ」と喜び、その場で絹千匹と刀百振りを賜り、軍勢二千人を加増した。孫権は「孟徳(曹操)には張遼がおり、孤には興霸がおって、釣り合いが取れているのだ」と言った。

甘寧は粗暴で殺人を好んだものの、爽快な人柄で計略を持ち、財貨を軽んじて士人を敬い、手厚く勇者たちを育てたので、勇者たちもまた役立ちたいと願った。

建安二十年(二一五)、合肥攻撃に従軍したが、疫病が流行したため軍勢はみな撤退し、車下虎士千人余りと、呂蒙・蒋欽・凌統・甘寧だけが(後詰めとして)逍遥津の北岸で孫権に従っていた。張遼がそれをはるかに眺めて、歩騎を率いて急襲をかけてきた。甘寧は弓を引き絞って敵兵に射かけ、凌統らとともに決死の覚悟で戦った。甘寧は声を荒げて「なぜ演奏しないのか」と鼓吹を責めたが、(戦争が終わると)その毅然たる勇壮さを、孫権はとりわけ評価した。

凌統は父凌操が甘寧に殺されたことを怨んでおり、甘寧はいつも凌統を警戒して顔を合わせようとせず、孫権もまた報復してはならぬと凌統に命じていた。あるとき呂蒙の邸宅で宴会が催され、盛り上がったところで凌統が刀を抜いて舞を始めた。「甘寧は双戟の舞をうまくやりますよ」と、甘寧も立ち上がった。呂蒙が「甘寧がうまいといっても、呂蒙ほどではないだろう」と言い、刀を振りながら楯を持ち、体ごと割って入った。後日、孫権は凌統の気持ちを知り、甘寧には軍勢を率いて半州へ移駐させた。

甘寧の廚房の少年が過失を犯し、呂蒙の元へ逃げ込んだ。呂蒙は甘寧が彼を殺してしまうことを心配し、すぐには帰さなかった。後日、甘寧は礼物を提げて呂蒙の母に贈るため、直接、座敷に参上することになった。そこで(呂蒙は)少年を甘寧に返してやり、甘寧も殺したりはしないと呂蒙に約束した。しばらくして船へ戻り、(少年を)桑の木に縛り付け、自ら弓を引いて射殺した。そのあと船頭に纜(ともづな)を幾重にもかけさせ、着物を脱いで船内に寝転んだ。呂蒙は激怒し、太鼓を打ち鳴らして兵士を集め、船を追いかけて甘寧を攻撃しようとした。甘寧はそれを聞いても、あえて立ち上がろうとはしなかった。

呂蒙の母が裸足で駆け付けて「至尊は汝(おまえ)を骨肉のように待遇なさり、重要な任務を汝に授けられました。どうして私怨によって甘寧を殺してよいものでしょう?甘寧が死んだなら、たとい至尊が不問に付したとしても、汝は臣下の法を犯したことになるのですよ」と諭すと、呂蒙はもともと孝心篤き人であったので、からりと気持ちが解け、甘寧の船まで行き、「興霸よ、老母が食事を作って卿を待ってるんだ。急いで来いよ!」と笑いながら呼びかけた。甘寧は涙を流しながら「取り返しのつかないことをしてしまった」と、むせび泣いた。呂蒙と一緒に引き返して彼の母に会い、ひねもす酒宴を楽しんだ。

同年冬《建康実録》、甘寧が卒去すると、孫権はそれを痛惜したものであった。

【参照】関羽 / 黄祖 / 朱光 / 周瑜 / 蒋欽 / 蕭何 / 蘇飛 / 曹仁 / 曹操 / 孫権 / 張昭 / 張遼 / 劉表 / 呂蒙 / 凌操 / 凌統 / 魯粛 / 夷陵県 / 烏林 / 益陽県 / 下雉県 / 夏口 / 合肥侯国 / [日完]県(皖県) / 漢 / 呉 / 呉県 / [朱β]県 / 濡須 / 逍遥津 / 蜀郡 / 西陵郡 / 当口 / 南郡 / 南荊 / 巴郡 / 半州 / 陽新県 / 臨江県 / 郡丞 / 計掾 / 県長 / 校尉 / 升城督 / 折衝将軍 / 前部督 / 太守 / 長史 / 長吏 / 都督 / 鼓吹 / 車下虎士 / 廚下児(廚房の少年) / 枚 / [耳毛](羽根飾り)

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