三国志モバイル人物伝

呉匡Wu Kuang

ゴキョウ
(ゴキヤウ)

(?〜?)
漢大将軍属

陳留郡の人。呉班の父《楊戯伝》。

『後漢書集解』が弘農太守となった呉匡伯康と同人とするのは誤り。弘農太守は河内の人であり、また活躍時期も若干離れている。

中平六年(一八九)八月戊辰《後漢書霊帝紀》、大将軍何進が宮中で殺害されたとき、その部曲将であった呉匡・張璋は日ごろから何進に可愛がられていたので、軍勢を率いて宮中に突入しようとした。宮門は閉じられていたが、呉匡は虎賁中郎将袁術とともにこれをぶち破った《後漢書何進伝》。

司隷校尉袁紹は、何進の弟である車騎将軍何苗とともに朱雀門の前に軍勢を集め、趙忠らを捕縛、これを斬首した。呉匡らはもともと何進に協力しなかった何苗を怨んでおり、また彼が宦官どもと通謀していたのではないかとも疑い、「大将軍を殺したのは車騎将軍だぞ。だれか仇討ちする者はおらぬか!」と号令をかけると、何進から恩恵を被っていた士卒たちはみな涙を流しながら「たとい死すとも!」と応じた。呉匡は軍勢を率いて奉車都尉董旻とともに朱雀門前の何苗を攻め殺し、その遺骸を御苑に放棄した《後漢書霊帝紀・同何進伝》。

呉匡による何苗殺害を『後漢書』霊帝紀では庚午、同天文志では己巳としている。

【参照】袁紹 / 袁術 / 何進 / 何苗 / 呉班 / 張璋 / 趙忠 / 董旻 / 朱雀門 / 陳留郡 / 虎賁中郎将 / 車騎将軍 / 司隷校尉 / 大将軍 / 奉車都尉 / 部曲将

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