三国志モバイル人物伝

呉懿Wu Yi

ゴイ

呉壱

呉壱Wu Yi

ゴイツ

(?〜237)
蜀車騎将軍・仮節・督漢中・雍州刺史・済陽侯

字は士遠。陳留郡の人《楊戯伝》。司馬懿の諱を避けて「呉壱」と書かれたと言われ、『華陽国志』には「呉懿」とある。

幼くして両親を亡くしたが、父の旧知劉焉が益州牧を拝命したので、一族を引き連れて劉焉とともに蜀に入る。人相見が呉壱の妹を見て高貴の身になることを予言すると、劉焉は彼女を我が子劉瑁の夫人に迎えた《穆皇后伝》。劉焉の没後、劉璋によって中郎将に任命されたが、[フ]県で劉備の侵攻を防ぐことができず降伏した。劉備が益州を支配すると護軍・討逆将軍に任じられ、妹を差し出して劉備の夫人とした《楊戯伝》。

章武元年(二二一)、劉備が帝位に就くと妹は皇后となり《穆皇后伝》、呉壱は関中都督(?)となる《楊戯伝》。建興六年(二二八)、北伐にあたって諸将は呉壱か魏延を先鋒とするように主張したが、諸葛亮は馬謖を任用し、馬謖の独断専行のため敗戦を喫してしまった《馬良伝》。同八年に魏延とともに北方の南安に進出、敵将費瑤を撃破し、左将軍・高陽郷侯に封じられた《楊戯伝》。また荊州刺史を領し、翌九年に李厳の罷免を報告する上表文に名を連ねる《李厳伝》。同十二年、諸葛亮が没すると督漢中となり、車騎将軍・仮節・雍州刺史に昇進し、済陽侯に封じられる《楊戯伝》。

同十五年(二三七)に亡くなった《楊戯伝》。

【参照】魏延 / 司馬懿 / 諸葛亮 / 馬謖 / 費瑤 / 李厳 / 劉焉 / 劉備 / 劉瑁 / 益州 / 漢中郡 / 関中 / 荊州 / 高陽郷 / 済陽県 / 陳留郡 / 南安郡 / [フ]県 / 雍州 / 仮節 / 関中都督 / 郷侯 / 侯 / 護軍 / 左将軍 / 刺史 / 車騎将軍 / 中郎将 / 討逆将軍 / 督漢中 / 都督 / 牧 / 華陽国志

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。