三国志モバイル人物伝

王商Wang Shang

オウショウ
(ワウシヤウ)

(?〜211)
漢益州治中従事・守蜀郡太守

字は文表。広漢郡[妻β]の人《華陽国志》。将作大匠王堂の後裔、王遵の子、王彭の父、王士・王甫の従兄《華陽国志》。

才能学識によって州里で名声があり、益州牧劉焉(劉璋は誤り)に招かれて治中従事になった《許靖伝》。王商は安漢の趙[是韋]・陳実、[チョウ]江の[キョウ]楊・趙敏・黎景、[ロウ]中の王澹、江州の孟彪を推薦したが、いずれも太守や州の高官となった《華陽国志》。ただ秦[ビツ]にも手紙を送って出仕を勧めたが、秦[ビツ]は隠者として暮らしたいと断っている《秦[ビツ]伝》。

初平四年(一九三)、征西将軍馬騰が[眉β]に駐屯し、劉焉とその子劉範とともに長安を襲撃しようと企てたとき、王商は何度も諫言した。しかし劉焉は聞き入れず、計画が漏れ、劉範は弟劉誕とともに誅殺されてしまった《華陽国志》。子供たちを失った劉焉は、気落ちして病気にかかり卒去した《劉焉伝》。

王商は劉焉の子劉璋が穏やかな性格だったので、益州帳下司馬趙[是韋]とともに劉璋を擁立した《華陽国志》。当時は牧や刺史が戦国の七雄のごとく振る舞っていたが、劉璋は惰弱で大臣を信任することができなかった。王商が手紙で彼を諫めると、劉璋はすこぶる悟るところがあった《許靖伝》。

むかし韓遂・馬騰が関中で混乱を起こしたとき、劉璋の父劉焉は彼らと款を通じていたが、馬騰の子馬超もまた劉璋と手を結ぼうとした。王商は諫めて言った。「馬超は勇猛でありながら仁慈の心がなく、唇歯の間柄になってはいけません。『老子』は国の利器を人に見せるなと言っておりますが、益州の土地は肥え、民衆は豊かで、宝物を産出する場所です。それこそ狡猾な奴らが転覆させようとし、馬超らが西方を窺う理由なのです。もし彼を引き入れて近付けるなら、虎を養って自分から災いを招くようなものですぞ」。劉璋は彼の言葉に従って馬超を拒絶した《許靖伝》。

荊州牧劉表や南陽の儒学者宋忠は彼の名声を聞き、彼に手紙を出して慇懃に挨拶した。許靖は人物評価で有名だったが、「王商が華夏(中原)に生まれていれば、王景興(王朗)でさえも彼を上回ることはできないだろう」と評した。劉璋は王商に蜀郡太守を兼任させた。そのころ宋忠は王商に手紙をやって「文休(許靖)は独立不羈、当世に役立つ能力を持っております。足下(あなた)は彼を指南役にすべきです」と勧めている《許靖伝》。

王商は蜀郡太守として、学問を修め農業を広めたので、百姓たちは暮らしやすくなった。また成都の禽堅が親孝行を尽くしていたので、上表して墓を作って孝廉を追贈してやり《許靖伝》、李[ヒツ]に命じて碑文を書かせた《華陽国志》。厳君平・李弘のために祠と石碑を作って先賢として顕彰したとき《許靖伝》、それを聞いた秦[ビツ]は彼の施策を歓迎するとともに、揚雄や司馬相如のために祠を建てることを請願している《秦[ビツ]伝》。

建安十六年(二一一)、治中従事として十七年《華陽国志》、蜀郡太守として十年で卒去し、広漢太守許靖が後任となった《許靖伝》。

【参照】王士 / 王遵 / 王澹 / 王堂 / 王甫 / 王彭 / 王朗 / 韓遂 / 許靖 / [キョウ]楊 / 禽堅 / 厳君平 / 司馬相如 / 秦[ビツ] / 宋忠 / 趙[是韋] / 趙敏 / 陳実 / 馬超 / 馬騰 / 孟彪 / 揚雄 / 李弘 / 李[ヒツ] / 劉焉 / 劉璋 / 劉誕 / 劉範 / 劉表 / 黎景 / 安漢県 / 益州 / 華夏 / 関中 / 荊州 / 広漢郡 / 江州県 / [妻β]県 / 蜀郡 / 成都県 / 長安県 / [チョウ]江県 / 南陽郡 / [眉β]県 / [ロウ]中県 / 孝廉 / 刺史 / 将作大匠 / 征西将軍 / 太守 / 治中従事 / 帳下司馬 / 牧 / 老子 / 七雄

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