三国志モバイル人物伝

劉馥Liu Fu

リュウフク
(リウフク)

(?〜208)
漢揚州刺史

字は元穎。沛国相の人。

戦乱を避けて揚州に住まいしていたが、建安年間(一九六〜二二〇)初め、袁術の将戚寄・秦翊とともに曹操に身を寄せたので、曹操は喜んだ。司徒に招かれて掾となった。

のちに孫策の任命した廬江太守李術が揚州刺史厳象を殺し、同郡の梅乾・雷緒・陳蘭らが軍勢数万人を集めて長江・淮水一帯の郡県を侵害したが、曹操はちょうど袁紹と事を構えており、劉馥ならば東南方面を任せられるだろうと考えて、揚州刺史に任命するよう上表した。

劉馥はただ一騎にて合肥の空き城に入り、そこを州の治府とした。南方に手を伸ばして雷緒らを手懐けると、みな彼の元に集まった。都への献上物は数年間欠かすことなく、恩徳ある教化は大いに行われた。百姓たちはその政治を楽しみ、流民どもも山や川を越えて帰服したが、その数は万単位に上った。そこで書生たちを集めて学校を設立し、屯田を実施、芍陂および茹被・七門・呉塘といった堤防を築いて灌漑を行ったので、官吏も民衆も豊かになった。

また木石を積み上げて城壁を高め、むしろを数千万枚作り、魚の油数千石を蓄えて戦争に備えた。のちに孫権が軍勢十万人を率いて合肥に攻め寄せたとき、むしろを被せて長雨をしのぎ、魚の油を燃やして敵の夜襲に備え、こうして百日以上も持ちこたえて孫権軍を敗走させられたのは劉馥のおかげなのである。

建安十三年に卒去した。

【参照】袁紹 / 袁術 / 厳象 / 秦翊 / 戚寄 / 曹操 / 孫権 / 孫策 / 陳蘭 / 梅乾 / 雷緒 / 李術 / 合肥侯国 / 呉塘 / 七門 / 芍陂 / 相県 / 茹被 / 長江 / 沛国 / 揚州 / 廬江郡 / 淮水 / 掾 / 刺史 / 司徒 / 太守

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