三国志モバイル人物伝

東里袞Dongli Gun

トウリコン

(?〜?)
漢南陽太守・左将軍司馬

曹操の将。南陽太守。東里に居住した鄭子産の庶子が在地名を氏としたという《武帝紀集解》。

建安二十三年(二一八)、東里袞は南陽太守として樊城で関羽と対峙する曹仁を支援していた。しかしその軍役が重かったため、十月、大将侯音・衛開らが叛逆して宛城を占拠した《武帝紀・[ホウ]悳伝》。東里袞はその混乱のさなか、功曹応余とともに城を脱出する。侯音から追っ手がかけられ、応余が我が身を捨ててこれを防いだので逃げ延びることができたものの、のちに結局捕まってしまった《高貴卿公紀》。

新たに任命された功曹宗子卿は侯音を説得した。「足下が民衆の気持ちにそって大事を起こしたことを仰ぎ慕わない者はありませんが、郡将を人質にするのは道理に逆らうことですぞ。どうして追放しないのですか」。侯音は彼の言葉に従って東里袞を釈放したが、宗子卿自身も夜中に城を脱出し、東里袞とともに敗残兵をかき集めて宛城を包囲した。まもなく樊城から曹仁が駆け付け、翌年正月、宛城を陥落させて侯音を斬首した《武帝紀・曹仁伝》。

侯音は山地の住民数千人を煽動して諸県で略奪を働かせていたが、東里袞は五百人余りを逮捕して獄に繋ぎ、「死刑に該当する」と上奏した《田予伝》。ちょうど関羽が樊城を包囲する事件があり、東里袞は于禁軍の司馬となって関羽軍と対峙することになった。しかし長雨のため于禁の軍勢は水没し、東里袞は于禁・浩周らとともに関羽の捕虜になった《呉主伝》。

孫権が関羽を滅ぼすと、東里袞らの身柄は孫権に保護された。曹操が薨去して曹丕が魏王に即位すると、孫権は東里袞を于禁・浩周らとともに送り返した。天子は詔勅を下して東里袞・浩周を引見したが、浩周が「孫権は臣下として服従するでしょう」と下問に答えたのに対し、東里袞は「彼はきっと服従させられないでしょう」と主張した。はたして孫権はいろいろと言い訳をして人質を出そうとはしなかった《呉主伝》。

【参照】于禁 / 衛開 / 応余 / 関羽 / 侯音 / 浩周 / 宗子卿 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 鄭子産 / 劉協(天子) / 宛県 / 魏 / 東里 / 南陽郡 / 樊城 / 王 / 功曹 / 司馬 / 太守 / 郡将

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