三国志モバイル人物伝

応余Ying Yu

オウヨ

(?〜218)
漢南陽功曹従事

字は子正。南陽郡の人《高貴郷公紀》。

生まれつき毅然とした容姿の持ち主で、志は仁義を尊んでいた。建安二十三年(二一八)、郡の功曹に任命されたが、同年冬十月、宛城を守っていた侯音が叛逆し、山中の人々を煽動しつつ自分は宛城に楯籠った《武帝紀・高貴郷公紀》。

応余と太守東里袞は混乱を目の当たりにすると、身を隠しつつ城外に脱出したが、侯音がすぐに追捕の騎兵を差し向けてきた。城外十里のところで追いつかれ、賊軍は東里袞に向かって矢を浴びせかけてくる。応余は東里袞の前に立って彼をかばい、我が身に七ヶ所の傷を被った《高貴郷公紀》。

応余は言った。「侯音がとち狂って叛逆しておるが、大軍は今にもやって来て謀叛人を誅殺してしまうだろう。卿曹(あなたがた)は本来善人であって悪意はないのだから、善の道に帰るべきだ。どうして彼の指揮など受けているんだ?我はご主君の身代わりになって重傷を負ったが、もしご主君が無事ならば、我が身は亡ぶとも恨みなど抱かぬ」。天を仰いで号泣し、涙とともに血が流れ落ちた。賊徒は彼の義烈ぶりを見て東里袞を見逃してやったが、応余は命を落としてしまった《高貴郷公紀》。

征南将軍曹仁は侯音を討ち平らげたのち、応余のことを上表するとともに祭祀を行った。曹操は彼のことを聞いて長いあいだ歎息し、荊州に命令を下して故郷で表彰させ、食糧一千斛を賜った。のち甘露三年(二五八)六月丙子、魏帝曹髦もまた彼の忠烈を称え、彼の孫応倫を役人に取り立てるよう司徒に命じている《高貴郷公紀》。

【参照】応倫 / 侯音 / 曹仁 / 曹操 / 曹髦 / 東里袞 / 宛県 / 魏 / 荊州 / 南陽郡 / 功曹従事 / 司徒 / 征南将軍 / 太守

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