三国志モバイル人物伝

侯音Hou Yin

コウオン

(?〜219)

曹操の大将《高貴郷公紀》。南陽郡の人《田予伝》。

侯音は曹操の将軍として宛城を守り、南方の関羽に備えていた。しかし南陽郡では軍役の重さに苦しんでいたので、侯音は衛開とともに城を挙げて叛逆して関羽に呼応し、山民を煽動し、近隣の県で数千人の官吏・民衆を捕らえた。太守東里袞は混乱のさなか、郡の功曹応余とともに城を脱出することができた。侯音は騎兵を出して追跡させ、十里先で追い付くことができた。騎兵が東里袞に矢を射かけると応余が前に出て、我が身で矢を防いで七ヶ所の傷を負った。応余の忠誠心を見て、騎兵たちは東里袞を見逃したが、彼らが立ち去ったあと応余は死んだ《武帝紀・高貴卿公紀・曹仁・[ホウ]悳伝》。

侯音は結局東里袞を人質にすることができたが、功曹宗子卿が「足下が民衆の心に従って大事を起こされたことは遠近で仰ぎ慕わない者はありません。しかしながら郡将を捕まえてしまったのは無益な叛逆です。どうして追い出さないのですか。吾(わたし)は子(あなた)と一緒に力を合わせましょう。曹公の軍が到着するころには関羽の兵もやってくるでしょう」と進言すると、侯音はそれに従って東里袞を釈放した《武帝紀》。

図らずも宗子卿が吐露したように侯音の叛逆は野心によるものではなく、南陽領民を労苦から解放するためであった。だから数多くの山民が彼を支持したのである。のちに東里袞は彼の支持者を捕縛して「死刑相当」と上奏しているが《田予伝》、その統治がいかに苛酷であったかが窺われよう。

宗子卿は夜の闇に紛れて城を脱出すると、東里袞とともに敗残兵を駆り集めて宛城を包囲した。まもなく樊城に駐屯していた曹仁の軍が到着し、翌二十四年正月、宛城は陥落し、侯音も斬首された《武帝紀》。侯音が煽動した山民数千人は郡内で盗賊行為を働いていたが、東里袞によって五百人余りが逮捕収監された《田予伝》。

【参照】衛開 / 応余 / 関羽 / 宗子卿 / 曹仁 / 曹操 / 東里袞 / 宛県 / 南陽郡 / 樊城 / 功曹 / 太守

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