三国志モバイル人物伝

孟光Meng Guang

モウコウ
(マウクワウ)

(?〜?)
蜀大司農

字は孝裕。河南郡洛陽の人。後漢の大尉孟郁の一族である。

後漢霊帝の時代に講部吏となり、董卓が献帝を拘束して長安に都を移したとき益州に逃亡した。益州牧劉焉・劉璋父子は彼を賓客としてもてなした。孟光は博学で古代の知識に明るく、あらゆる書物を読破していたが、とくに『史記』『漢書』『東観漢記』の研究に打ち込んで、漢王朝の古い制度に詳しかった。また『公羊春秋』を尊んで『春秋左氏伝』を批判し、来敏とその解釈の議論になると大声を上げながら相手を批判した。

劉備が益州を平定すると議郎に任命され、許慈らとともに宮中儀礼の復活の作業にあたった。劉禅が即位すると符節令・屯騎校尉・長楽少府となり、また大司農に昇進した。

延煕九年(二四六)、大赦令が出されることになった。孟光は人々の眼前で大将軍費[示韋]を批判して述べるに「恩赦というのは止むを得ない場合に限るべきものです。いま陛下は慈悲深く聡明な方で、百官は職務に相応しい働きをしておりますのに、なぜ理由もなく悪人たちに恩恵を与えるのでしょうか」と。費[示韋]は恐縮して謝るばかりだった。孟光が人を批判するときはいつもこういった調子だったので、朝廷の人々はみな孟光を憎み、彼を昇進させようとしなかった。

郤正が学問上の質問をするため孟光の邸を訪れると、孟光は尋ねて言うに「皇太子(劉[王睿])のお人柄はどうかね」、郤正「父帝には孝行を尽し、群臣には仁愛をもって接しておられます」、孟光「それは世間なみのことだ。わしが聞きたいのは権謀才智のことだ」、郤正「お世継ぎというものは父の意志に従うべきで自分勝手なことはできません。才智は胸に秘めておくべきで外に顕わすものではありません。どうして優劣を知ることができましょう」、孟光「わしは直言を好んで遠慮容赦せず人の欠点をあげつらっているから、君はわしを快く思っていないようだが、言葉にはそれを言うだけの根拠があるものだ。乱れた天下に必要になるのは第一に英知であろう。それは天賦の才能でもあるが、努力によって獲得することもできる。皇太子に授ける学問というのは、人が質問するのを待って問題に答えたり、それによって出世を求めるような学問であって良いものか。もっと大切なことを努力すべきではないだろうか」。郤正は孟光の言葉を心から正しいと考えた。

のち孟光は事件に連座して罷免され、九十歳余りで亡くなった。

【参照】許慈 / 郤正 / 董卓 / 費[示韋] / 孟郁 / 来敏 / 劉焉 / 劉協(献帝) / 劉宏(霊帝) / 劉璋 / 劉[王睿] / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 河南尹 / 長安県 / 洛陽県 / 議郎 / 講部吏 / 大尉 / 大司農 / 大将軍 / 長楽少府 / 屯騎校尉 / 符節令 / 牧 / 漢書 / 史記 / 東観漢記 / 公羊春秋 / 春秋左氏伝 / 大赦令

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