三国志モバイル人物伝

郤正Xi Zheng

ゲキセイ

(?〜278)
蜀秘書令
晋巴西太守・関内侯

字は令先。河南郡偃師の人。

祖父郤倹は漢の霊帝の時代のすえ益州刺史であったが盗賊に殺害された。父郤揖は将軍孟達の営都督となったが孟達とともに魏に降っている。郤正は若くして父と死別し、母は再縁したので孤独であったが、貧しいながら学問に励み、広く古典を読破した。二十歳には巧みな文章を書けるようになり、宮廷に仕えて秘書吏となったのち秘書令史に移り、秘書郎、秘書令と昇進していった。司馬相如・王褒・揚雄・班固・傅毅・張衡・蔡[ヨウ]らの文章や辞賦、現代の書簡・議論まで益州にあるものほとんどを研究考察した。利益や名誉には無関心で、宦官黄皓とは邸が隣同士だったが、気に入られることも憎まれることもなかった。

『釈譏』という対話形式の文章を書いて、人々の批判に弁明して曰く「ある人が問うに『あなたは才能があるのに発揮しようとせず時折陛下に意見するだけだ。それなら安楽な道を歩んで我々に利益をもたらしてくれまいか』。私は答えて『私は愚か者ながら陛下のお役に立てばと思い意見いたしますが、その意見が聡明な君主と一致すれば名誉に思いますし、一致しなければ愚かな意見を引っ込めるだけのことです。得ることも失うこともないのですから何も心配していません。それで才能を発揮してないよう見えたのでしょう。優れた人物は山のようにいらっしゃるのですから、私は運命に身を任せて無欲の生活を楽しみたいと思っております』」と。

景耀六年(二六三)に皇帝劉禅が魏に降伏したとき、魏の[登β]艾に提出した降伏文書は郤正が書いたものである。劉禅が上洛したとき、魏の鍾会の叛乱したため郤正と張通の二人しか随行できなかった。そのとき郤正の補佐が適切だったので、劉禅は溜息をついて彼を早く認めるべきだったと悔やんだ。魏の人々は郤正を称え、彼は関内侯に封じられた。泰始年間に安陽県令となり、巴西太守に昇進した。咸寧四年(二七八)に亡くなった。

【参照】王褒 / 郤倹 / 郤揖 / 黄皓 / 蔡[ヨウ] / 司馬相如 / 鍾会 / 張衡 / 張通 / [登β]艾 / 班固 / 傅毅 / 孟達 / 揚雄 / 劉宏(霊帝) / 劉禅 / 安陽県 / 益州 / [エン]師県(偃師県) / 河南尹 / 魏 / 巴西郡 / 洛陽県 / 営都督 / 関内侯 / 県令 / 刺史 / 将軍 / 太守 / 秘書吏 / 秘書令 / 秘書令史 / 秘書郎 / 釈譏 / 宦官

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