三国志モバイル人物伝

来敏Lai Min

ライビン

(?〜?)
蜀執慎将軍

字は敬達。義陽郡新野県の人。来歙の末裔で、漢の司空来[豐盍]の子である。

天下に大乱が起こると姉とともに荊州に逃れた。姉の夫黄[王宛]が益州牧劉璋の祖母の甥だったので、姉弟は劉璋に引き取られた。来敏は書物を広く読み漁って『左氏春秋』に通じ、『三倉』『広雅』の訓詁学に詳しくして校正を好んだ。

劉備が蜀を支配すると典学校尉となり、のち劉禅の太子家令に任じられた。劉禅が即位すると虎賁中郎将に昇進する。諸葛亮とともに漢中に駐留したが、「新入りにどんな手柄や徳行があって私の地位を取り上げて彼らに与えようというのですか。人々はみな私を憎んでいるようですが、なぜそんな態度を取るのでしょうか」と恨み言を言ったため罷免された。諸葛亮の死後、大長秋に再登用されたが、また免職となった。のち光禄大夫に取り立てられたが、またも過失を犯して官職を没収された。

こうしてたびたび免職されたのは、彼の言葉に節度がなく、行動が常軌を逸していたからである。同じころ孟光も人々の逆鱗に触れる言葉を吐いたが、来敏は一層ひどかった。しかし二人とも年老いた大学者として世間から大事にされており、しかも来敏は名家出身であったうえ劉禅の皇太子時代からの臣下であったので格別優遇を受けたのである。

のちに執慎将軍に任命され、景耀年間に九十七歳で亡くなった。

【参照】黄[王宛] / 諸葛亮 / 孟光 / 来[豐盍] / 来歙 / 劉璋 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 漢中郡 / 義陽郡 / 荊州 / 蜀 / 新野県 / 光禄大夫 / 虎賁中郎将 / 司空 / 執慎将軍 / 太子家令 / 大長秋 / 典学校尉 / 牧 / 訓詁学 / 広雅 / 三倉 / 春秋左氏伝(左氏春秋)

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