三国志モバイル人物伝

劉巴Liu Ba

リュウハ
(リウハ)

(?〜222)
蜀尚書令

字は子初。零陵郡烝陽県の人。

若年にして名を知られ、荊州牧劉表よりしばしば招かれ、茂才にも推挙されたが出仕しなかった。十八歳のとき零陵郡に召し出されて戸曹史主記主簿に任命される。劉表が没して曹操が南進すると人々はみな劉備に従ったが、劉巴だけは曹操のもとに赴いた。丞相曹操の掾に任じられて長沙・零陵・桂陽郡への服従を求める使者となる。しかし劉備がこれらの郡を占領したため帰ることができず、そのまま南下して交州に逃れた。このとき諸葛亮から劉備に仕えるよう誘われたが、曹操から命令を受けた以上、途中で職務を放棄することはできないと断っている。

劉巴は益州に入って劉璋に仕えたが、彼が劉備を迎えようとすると「山林に虎を放つようなものです」と反対した。しかし劉備は益州平定後、兵士が劉巴を殺さないよう命令を出し、劉巴が現れると過去の罪を咎めず大喜びで迎えた。諸葛亮の推薦もあって左将軍(劉備)の西曹掾に任じられる。

あるとき張飛が劉巴の屋敷に宿泊したことがあったが、劉巴は一言も口を聞かなかったので張飛は激怒した。諸葛亮は「張飛は武骨者だが貴方を尊敬しているので大目に見てやって欲しい」と告げたが、劉巴は「英雄とならば付き合いたいが、軍人の相手はしません」と答えた。劉備は「わしは天下のため努力しているのに劉巴は邪魔ばかりしている。北に帰るつもりで利用しているだけなのか」と腹を立てた。これを聞いた呉の孫権は「もし劉巴が権勢に従って態度を変え、劉備に媚びへつらい、素行の良くない人々と付き合うなら立派な人間とは言えないだろう」と述べている。

劉備が漢中王になると尚書となり、法正が没すると尚書令を襲った。彼は質素な生活を心懸け、田畑を経営して財産を殖やそうとはしなかった。そして自ら進んで劉備に仕えたのではなかったので、忠誠を疑われないように慎みと沈黙を守り、公務が終わると他人と私的な交際は結ばないようにした。劉備が帝位に即いたとき神に捧げた文は彼の筆によるものである。

章武二年(二二二)に逝去した。魏の陳羣は諸葛亮に手紙を送って劉巴のことを尋ねたが、彼を「劉君子初」と呼んで敬意を示した。なお劉巴は諸葛亮・法正・李厳・伊籍とともに蜀の法律「蜀科」を制定している《伊籍伝》。

【参照】伊籍 / 諸葛亮 / 曹操 / 孫権 / 張飛 / 陳羣 / 法正 / 李厳 / 劉璋 / 劉備 / 劉表 / 益州 / 漢中郡 / 魏 / 荊州 / 桂陽郡 / 呉 / 交州 / 烝陽侯国 / 長沙郡 / 零陵郡 / 王 / 戸曹史主記主簿 / 左将軍 / 左将軍西曹掾 / 尚書 / 丞相 / 丞相掾 / 尚書令 / 牧 / 茂才 / 蜀科

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