三国志モバイル人物伝

習珍Xi Zhen

シュウチン
(シフチン)

(?〜?)
蜀裨将軍・昭陵太守

襄陽郡の人。習温の父、習宏の兄《襄陽記》。

習珍は劉備に仕えて零陵北部尉・裨将軍に任じられていた。しかし孫権が関羽を殺したとき諸県がこれに呼応、習珍は城に楯籠ろうとしたが、弟習宏が「武装・志気の面で対抗できませんから、しばらく膝を屈し、そののち大功を立てて漢室に報いなさるのがよいでしょう」と勧めたのでそれに従った《襄陽記》。

のちに密かに樊胄らと手を結んで挙兵したが、孫権軍に敗れる。習珍は七県を占拠して邵陵太守を自称、異民族の土地に駐屯して蜀に味方した《襄陽記》。

習珍の挙兵は、章武元年(二二一)秋七月に劉備が征呉軍を催したときのことであろうか。劉備が[シ]帰に進出すると武陵の諸県や蛮民が彼に呼応したので、孫権は陸遜・潘濬らに鎮圧させたとある《先主・呉主伝》。『襄陽記』に「邵陵」というのは司馬昭の諱を避けたもので本来は「昭陵」であろう。

孫権の命を受けて潘濬が習珍を征討し、至るところで城を陥落させた。習珍は麾下数百人を率いて山に登る。潘濬が何度も手紙を送って降服を勧告したが、習珍は答えなかった。そこで潘濬は側近だけを連れて山麓まで行き、語り合おうと呼びかけた。習珍は潘濬に弓矢を放ちつつ言った。「わしは漢の鬼となろうとも呉の臣にはならぬ。もう来るでないぞ!」《襄陽記》

潘濬は改めて攻撃にかかった。習珍は一ヶ月余りも固守したが、兵粮も矢も尽き果ててしまった。習珍は部下の者たちに向かって「漢の厚恩を受けたからには死んでお報いせぬわけにはいかぬのじゃ。諸君がそこまですることはあるまい」と言い、剣を取って自分の首を刎ねた《襄陽記》。

劉備は習珍が敗死したと聞いて喪に服し、邵陵太守の官を追贈した《襄陽記》。

【参照】関羽 / 習温 / 習宏 / 孫権 / 樊[イ由](樊胄) / 潘濬 / 劉備 / 漢 / 呉 / 襄陽郡 / 昭陵郡(邵陵郡) / 蜀 / 零陵郡 / 裨将軍 / 零陵北部尉

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