三国志モバイル人物伝

習宏Xi Hong

シュウコウ
(シフクワウ)

(?〜?)

襄陽郡の人。習珍の弟《襄陽記》。

習宏は兄習珍とともに関羽に仕えていたが、呉の孫権が関羽を殺したとき、「崩壊した民衆を駆り立てて勝利に乗じる敵に対抗するのに、装甲は堅固でなく士卒も精鋭ではありませんから、成功を収めるのは困難です。しばし奴らに膝を屈し、そののち大功を立てて漢室にお報いなさるのがよいでしょう」と兄に勧めた《襄陽記》。

習珍はその言葉に従って呉に降り、のちに樊胄らと手を結んで挙兵、しかし潘濬に討伐された。習宏は呉に住まいしていたが、(孫権からの)ご下問があっても一切答えなかった。そこで張邵伯は「もし亡国の大夫が諮問を受けられず、敗軍の将が武勇を語れないのだとすれば、商(殷)の箕子は過去のせいで見捨てられ、趙の広武君(李左車)は当世において采配ができないことになってしまうぞ」と批判した《襄陽記》。

「呉に住まいしていたが、ご下問があっても一切答えなかった」は舒焚・張林川の増補によった。また張邵伯は司馬昭の諱を避けたもので張昭を指すと考えられている。

【参照】関羽 / 箕子 / 習珍 / 孫権 / 張昭(張邵伯) / 樊[イ由](樊胄) / 潘濬 / 李左車 / 殷 / 漢 / 呉 / 襄陽郡 / 趙

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