三国志モバイル人物伝

司馬徽Sima Hui

シバキ

(?〜208?)

字は徳操。潁川陽[タク]の人《[ホウ]統伝集解》。「水鏡」あるいは「氷鏡」と評された《襄陽記》。

興平二年(一九五)、[ホウ]徳公は潁川に司馬徽ありと聞いて、甥の[ホウ]統に二千里の道を越えて訪問させた《襄陽記・[ホウ]統伝集解》。司馬徽はちょうど木に登って桑の葉を採っているところだったが、[ホウ]統は車内から「丈夫たる者、この世に生まれたからには金印紫綬を帯びねばならぬと吾(わたし)は聞いている。どうして広大なる器量を隠して糸紡ぎなどという女仕事をしておられるのか」と呼びかけた《[ホウ]統伝集解》。

[ホウ]統が司馬徽と会ったのを『襄陽記』では十八歳のときとし、『集解』に引く『世説新語』では二千里の道を越えて司馬徽に会いに行ったとしている。これを採れば、司馬徽は興平二年の時点まで潁川にいたことになる。ただし、司馬徽がこのとき潁川にいたこと、[ホウ]統が不遜な態度で声をかけたこと、司馬徽が夜になるまで樹上にいたことについては、魏晋の文士による作り話であろうとの批判が多い。また『襄陽記』では[ホウ]統を司馬徽のもとへ行かせたのは[ホウ]徳公だとしている。

司馬徽は言った。「子(あなた)はまず車を降りたまえ。子は直進する速さを知っておるだけで、(そのせいで)道に迷うことをご存じない。むかし伯成は田畑を耕して諸侯の栄誉を求めなかったし、原憲は桑や枢(やまにれ)を邸宅に交換しようとはしなかった。どうして豪勢な屋敷に住み、肥えた馬に跨り、数十人の婦女を侍らさなければ満足できぬということがあろう。それこそが許父の慷慨し、伯夷・叔斉の歎息した理由なのだよ。たとい秦の爵位と千乗の馬車を盗んだとしても、貴ぶほどのことはない!」《[ホウ]統伝集解》

[ホウ]統は「小生は辺鄙の地から出てきて、ようやく大義を知りました。一度も大鐘・雷鼓を打ち鳴らさねば、その音響が分からないのと同じなのです」と言った《[ホウ]統伝集解》。司馬徽は木の上にいて、[ホウ]統は木の下にいて、昼から夜になるまで語り合った。司馬徽は歎息して「[ホウ]徳公はまこと人間を知っておられる。この者は実に立派な人徳者だ。南方の人士の中でも頂点に立つだろう」と言った《[ホウ]統伝》。

司馬徽はあるとき[ホウ]徳公のもとを訪れたが、ちょうど徳公は[ベン]水を渡って祖先の墓参りに出かけたところだった。司馬徽はまっすぐ入って座敷に上がり、徳公の妻子を呼び付けて黍を作らせ、言った。「あらかじめ徐元直(徐庶)が言っていたはずだぞ。客人がやってきて、私と公とが話し合うことになっている、と。」徳公の妻子はみな座敷の下へ一列になって拝礼し、駆けずりまわって御膳を用意した。しばらくして徳公が帰ってきて、すぐさま入って会ってみたのだが、この訪問客が何者であるのか、まるで覚えがないのであった《[ホウ]統伝・襄陽記》。

司馬徽は襄陽の魚梁洲に住まいし、徳公の住まいと軒を並べ、舟を浮かべたり裾をからげたりして往来した《水経注》。司馬徽は清廉にして優雅であり、人間の本質を見抜く力を持っていた。徳公は彼のことを「水鏡」(あるいは氷鏡)と評した。司馬徽は徳公より十歳若かったので、彼に兄事して「[ホウ]公」と呼んだ《[ホウ]統伝》。

司馬徽は荊州に学問所を開いて古文を教え、門弟には徐庶・韓嵩・[ホウ]統・向朗・尹黙・李仁らがあった《向朗・尹黙・李[言巽]伝》。また、当時十歳であった劉[イ]が学問所の側で遊んでいると、司馬徽がその頭を撫でながら、「子供や、子供。黄色を中央にして理が通ずるということ、お前さんは知っているのかね?」と言った《劉[イ]伝》。のちに天命の行く末について劉[イ]と交わした議論は、呉の玄の手により「黄色の旗、紫色の蓋が東南の方角に見える。最終的に天下を領有するのは荊州・揚州の君主だ!」と改竄され、呉の人々を惑わせることになった《孫晧伝》。

司馬徽は、劉表が暗愚さゆえに必ずや善人を殺すだろうと思い、口を閉ざして他人と議論することはなかった。ある人が劉表に「司馬徳操は奇才の士ですが、まだ誰からも招かれておりません」と告げた。のちに劉表は、彼に会ってみたが「世間の人間がでたらめを言っただけだな。あれはただの書生に過ぎぬ」と言った。司馬徽は才智の持ち主でありながら、このようにうまく愚者のふりをしていた《[ホウ]統伝集解》。

自分を評価してもらいたいと訪ねてくる人がいても、司馬徽は決してその優劣をはっきりさせず、いつも「よろしいね」と言っていた。妻が「人々が質問してくるのは貴君に人を見る目があるからでしょう。それなのによろしいよろしいばかりじゃ、貴君の意見を求める意味がないじゃないですか?」と諫めても、司馬徽は「貴君のおっしゃることも、これはまたよろしいね」と言うのであった。その慎重さはこういう具合であった《[ホウ]統伝集解》。

あるとき司馬徽の豚を見て、自分のものだと主張する人があった。司馬徽はすぐさま豚を与えてしまった。後日、その人は自分の豚を見つけ、司馬徽に豚を返して土下座した。司馬徽の方でも丁重な言葉をかけ、彼に詫びた《[ホウ]統伝集解》。

劉表の子劉?は司馬徽のもとを訪ねたとき、彼が在宅かどうかを側近に確かめさせた。司馬徽はその手に鋤を持って畑を耕していたが、側近が「司馬君はご在宅かね?」と訊ねると、「我(わたし)がそうです」と答えた。側近はその田舎むさい姿を見て、「くたばり損ないめ。将軍とお歴々は司馬君に会いたいと仰せなのだ。汝(おまえ)は農奴の分際で、なにゆえ司馬君のご尊名を自称しやがるのか!」と罵倒した《[ホウ]統伝集解》

司馬徽は家に戻って髪を刈り、頭巾をかぶって出てきた。側近はさっきの老いぼれが司馬徽であると知って恐怖し、劉?に告げると、劉?は座席からすべり降りて土下座し、謝罪した。司馬徽は「卿(あなた)は本当にそんなことしないでください。吾はとても恥ずかしくなりますから。これは自分で畑を耕すような人間に過ぎないのに、たまたま卿のお耳を汚しただけなのですよ」と言った《[ホウ]統伝集解》。

劉[王宗]が司馬徽のもとを訪れたのは、劉表死後のことだろう。

ある人が蚕取りをしたいからといって簀の子を借りにきたとき、司馬徽は自分の蚕を捨ててそれを与えた。別の人が「だいたい自分のものを他人に与えるのは、相手が急いでいて自分に余裕がある場合です。今回はあっちもこっちも対等の立場なのに、どうして他人にくれてやったのですか?」と訊ねると、司馬徽は「私は今まで他人から要求されたことはなかった。要求されて与えないのは恥ずかしいことだよ。どうして道具ごときで恥をかく必要があるだろうか!」と答えた《[ホウ]統伝集解》。

建安十二年(二〇七)《通鑑》、劉備が襄陽の司馬徽を訪問して現在の事柄について訊ねた。司馬徽は答えた。「儒者や俗人どもに一時代の大仕事が理解できましょうか?時代の仕事を理解しているのは俊傑です。この辺りに伏龍・鳳雛がおりますぞ。」劉備がだれかと訊ねると、司馬徽は「諸葛孔明(諸葛亮)・[ホウ]士元([ホウ]統)でございます」と言った《諸葛亮伝》。

曹操が荊州を破滅させたとき、司馬徽はその手に落ちた。曹操は重用するつもりであったが、ちょうどそのころ司馬徽は病気で亡くなった《[ホウ]統伝集解》。

享年三十六歳とする説もあるようだが、出典を確認できなかった。

【参照】尹黙 / 韓嵩 / 許父 / 原憲 / 叔斉 / 諸葛亮 / 徐庶 / 向朗 / 曹操 / 玄 / 伯夷 / 伯成 / [ホウ]統 / [ホウ]徳公 / 李仁 / 劉[イ] / 劉[王宗] / 劉備 / 劉表 / 潁川郡 / 魚梁洲 / 荊州 / 呉 / 襄陽県 / 秦 / [ベン]水 / 揚州 / 陽[タク]県 / 運命暦数 / 黍 / 金印 / 黄旗 / 古文 / 紫蓋 / 紫綬 / [巾責](頭巾) / 知人鑑(人物を見抜く力) / 伏龍 / 鳳雛

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