三国志モバイル人物伝

呂介Lu Jie

リョカイ

呂公

呂義Lu Yi

リョギ

呂乂

呂君Lu jun

リョクン

(161〜221)
魏横海将軍・領章陵太守・西鄂都郷侯

曹操の将。章陵太守。南陽郡博望の人《隷釈》。

実名は不詳。ここでは仮に呂君と称することにする。もすさんは呂常と同人であると推定されている。章陵は襄陽城に近く、その可能性も充分に高い。

呂君は生まれながら決断力に優れ、武勇に秀でながらも他人を傷付けることはなかった《隷釈》。

漢代末期、帝室は支配力を失って群雄が勢力を競い、海内は分裂して王道は断絶していた。呂君は忠勇でもって武名を馳せ、刺史により試験的に雉の県長に任じられた。矛を手にして鎧を着け、県境をしっかり守ったので、敵国に対して武器を使うこともなく、四方に対して侵略することもなかった。武猛都尉を拝命、[レイ]節中郎将・裨将軍と昇進して関内侯に封ぜられた《隷釈》。

官軍の南征に加勢して長江・漢水流域を制圧し、功績が認められて陰徳亭侯に封ぜられ、章陵太守を領し、逃散した者どもをかき集めて領民とした。三度の昇進試験に合格して平狄将軍に栄転、盧亭侯へ転封となった《隷釈》。

領国に赴いて政治を敷くこと十三年。みずから率先して配下の者を導き、出費を節約、食事は一膳のみ、座るときも蓆を重ねず、廏舎に粟を食う馬なく、外出のときも副車で従う者なく、生きているときも家財を増やさず、死ぬときも孤児を託さず、良き大夫というべき態度は楚の叔敖、斉の晏嬰でも勝てなかっただろう。軍勢を統率するときは、暑くても日傘を差さず寒くても毛皮を着けず、戦闘が始まれば、矢石の降るところ、矛先の届くところまで踏み込み、古代の名将でも勝てないほどであった《隷釈》。

領国に赴くとは盧亭侯に封ぜられたことを指すと思われる。西鄂への転封から逆算すると、入封したのは建安十三年(二〇八)のことと推定される。昇進試験は三年ごとに行われ、九年後、三度目の合格で官位が上がる。裨将軍に任じられたのは建安四年(一九九)ごろのことだろうか。

そのころ水かさが増して関羽が荒れ狂い、辺境を揺るがして人民を殺戮した。洪水が溢れかえって樊城を水浸しにし、平原でも十仞も漬かって城の外堀と繋がり、猛将も悍馬もぷかぷかと浮いたり沈んだりした。そのため不逞邪悪な連中が鼎の沸くが如く満ちあふれ、ある者は城に楯籠って叛逆し、ある者は軍勢を連れて敵の軍門に降り、平民以下、異心を抱かぬ者はなかった《隷釈》。

しかし呂君の威厳恩徳による信義は危難にあってますます明らかとなり、そのため毅然として邪悪な者どもを撃ち払うことができ、ひたすら社稷を守って十三城を連ね、民衆に損害を被らせなかったのである。帝(劉協?)はその一貫性を嘉して横海将軍に栄転させ、西鄂都郷侯に封じ、食邑は合わせて七百戸となった。こうして名声は地方に轟きわたり、南方から悪人どもが一掃されたのである《隷釈》。

こうして魏国に対する大功を立て、宗廟に対する業績を挙げたものの、病の床に伏して十日、黄初二年(二二一)正月、六十一歳で薨去した。帝(曹丕)も群僚も彼のために哀悼し、謁者を派遣して弔辞を述べさせ、臣下を加増してやった。民衆士人に悲しまぬ者はなく、故吏の楊向らが彼のために石碑を立てたのであった《隷釈》。

「魏国に対する大功」「宗廟に対する業績」とは、おそらく漢から魏への禅譲を推進したことを指している。

【参照】晏嬰 / 関羽 / 叔敖 / 曹操 / 曹丕(帝) / 楊向 / 劉協(帝) / 陰徳亭 / 漢 / 漢水 / 魏 / 章陵郡 / 斉 / 西鄂県 / 楚 / 雉県 / 長江 / 南陽郡 / 博望県 / 盧亭 / 謁者 / 横海将軍 / 関内侯 / 県長 / 刺史 / 太守 / 亭侯 / 都郷侯 / 裨将軍 / 武猛都尉 / 平狄将軍 / [レイ]節中郎将 / 故吏 / 三考(三度の昇進試験)

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