三国志モバイル人物伝

呂乂Lu Ai

リョガイ

(?〜251)
蜀尚書令

字は季陽。南陽郡の人。

『三国志演義』では「呂義」の名で現れる。

父呂常は益州牧に任命された劉焉を送り届ける役目を負ったが、街道が閉ざされため帰国できなくなった。呂常が没したとき呂乂は幼かったが読書と音楽を愛好していた。

劉備が益州を平定すると塩府校尉の官を新設して塩鉄の専売を図ったが、のち塩府校尉王連は呂乂・杜祺・劉幹を召し出して典曹都尉に任じた。のち新都・緜竹の県令となったが、慈悲を第一に心懸けたので、住民は彼を愛して益州第一の政治だと評価した。

さらに巴西太守に昇進する。丞相諸葛亮は毎年のように北伐を繰り返し、諸郡から人員・物資を徴発したものの不足することが多かったが、呂乂は五千人を徴発して、彼らをいたわったり取り締まりをしっかりしたので、誰も脱走しなかった。漢中太守に栄転して督農校尉を兼任し、前線に兵糧を搬送する役目を不足なく果たした。

のち広漢・蜀郡太守を歴任。蜀郡は首都なので人口が多いうえ、諸葛亮の死後まもなくのことだったので、徴兵を免れんとした者が偽名を使って紛れ込むなど不正が多かった。呂乂は任地に着くと防止策をとって彼らを教育したので、数年のうちには不正を行った一万人の者が自分から出ていくようになった。

中央に呼ばれて尚書となり、さらに董允に替わって尚書令となったが、多忙な職務にも係わらず滞りはなかった。しかし法律を厳しく運用し、また法律万能主義の役人を多く登用したので、名声は太守時代より劣っていた。

延煕十四年(二五一)に逝去。呂乂は地方と中央の職を務めたが、質素倹約に努め、謙虚で無駄口をせず、仕事は簡潔にまとめて煩雑さがなかったので「清能」と評価された。

【参照】王連 / 諸葛亮 / 杜祺 / 董允 / 劉幹 / 劉備 / 劉焉 / 呂常 / 益州 / 漢中郡 / 広漢郡 / 蜀郡 / 新都県 / 南陽郡 / 巴西郡 / 緜竹県 / 塩府校尉 / 県令 / 尚書 / 丞相 / 尚書令 / 太守 / 典曹都尉 / 督農校尉 / 牧 / 塩鉄

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