三国志モバイル人物伝

何攀He Pan

カハン

(244?〜301)
晋大司農・西城桓公

字は恵興。蜀郡[卑β]の人。何包の子《華陽国志》、何璋の父。

何攀の兄弟五人はみな有名であり、何攀は若くして成熟し、目を見張るほどの容姿の持ち主であった。弱冠にして郡主簿となり、上計吏を務め、州に招かれて従事になった《華陽国志》。

刺史皇甫晏は何攀を「王佐の才である」と評価し、主簿に取り立てた。泰始十年(二七四)、母を世話するため実家に帰った《華陽国志》。皇甫晏が牙門張弘に殺され、大逆の罪でもって誣告されたとき、何攀は母の喪に服していたが、そのまま梁州へ参詣し、皇甫晏は反逆していないと保証した。そのおかげで皇甫晏の冤罪は再審されることになった。

皇甫晏の殺害されたのが泰始八年なので《晋書武帝紀》、何攀の帰郷を泰始十年とするのはおかしい。

王濬は益州刺史になると何攀を招いて別駕に任じた。咸寧三年(二七七)、屯田兵を解散して呉討伐のために軍船を建造せよとの詔勅が王濬に下された。何攀は進言した。「いま屯田兵は六百人しかおらず、軍船を造るのに六・七年、予算も一万人分かかります。休養中の正規兵を呼び戻して一万人で造れば、年末までには完成いたしましょう。」《華陽国志》

王濬は兵士一万人を呼び戻すならば、あらかじめ報告して、その返事を待つべきではないかと言った。何攀は言った。「国家には呉を討伐する意志があっても、まだためらう者も多く、兵士一万を呼び戻したいと聞かされればきっと許可いたしますまい。すぐさま兵士を駆りだして完成させてしまえば、もう制止されることはございませぬ。」王濬はその答えに満足した《華陽国志》。

山に入って材木を切り出すには、数百里もの道のりがあり、困難が予想された。そこで何攀は言った。「いま多くの墳墓では松や柏を植えており、残りの十分の四を市場で調達すれば、あっという間です。」王濬は喜び、何攀に軍船建造の監督役を任せた《華陽国志》。

その冬十月、何攀は洛陽への使者に立つことになった。何攀は言う。「聖人の功業は完成して当然ですが、他人にそれを信じさせるのは困難です。羊公(羊[示古])は使君(知事どの)の盟友であり、国家の重鎮です。しかも江陵の失策があり、名誉回復を願っておられますので、連名で陳情するのがよろしゅうございます。」王濬が言った。「羊叔子(羊[示古])ばかりではない、宗元亮(宗廷)の願いでもある。君が洛陽に到着して、もし国家にその意志がないようなら、すぐさま襄陽へ向かって羊・宗と相談してくれたまえ。」《華陽国志》

何攀は洛陽に到着すると拝謁を許され、呉討伐の策略を献言した。その足で襄陽へ行って荊州刺史宗廷と語り合い、宗廷が決断を下さぬうちに征南大将軍羊[示古]と会見し、何日もかけて二人で戦略を練った《華陽国志》。

何攀が言った。「もし青州・徐州が海沿いに京口へ向かい、寿春・揚州がまっすぐ秣陵を目指し、[エン]州・予州が淮水を越えて桑浦を占拠すれば、武昌から会稽までを恐慌状態に陥れることができます。荊州・平南が夏口へ直進し、巴東諸軍が西陵を包囲し、益州・梁州の軍勢が長江の流れに乗って東行し、楽郷を封じつつ巴丘を固めれば、武陵・零陵・桂陽・長沙・湘東は噂を聞いただけで帰服するでありましょう。とにかく信賞必罰を明らかにし、勝利に乗じて席巻すれば、呉会が尽く平定されぬはずがございませぬ。」羊[示古]は大いに満足し、王濬と連名で呉討伐の許可を求めた《華陽国志》。

同四年、何攀は改めて洛陽への使者となり《華陽国志》、二度目の拝謁を許され、何攀とともに討伐の是非を検討するようにと張華へ命令が下された。何攀は将軍の命令を全うしたということで、帝のお褒めにあずかり、五年、王濬は龍驤将軍に任じられ、何攀は詔勅により郎中、王濬の参軍事となった《華陽国志》。このとき何攀は未婚であったが、司空裴秀はその才覚に目を見張り、自分の女を彼に嫁がせた《華陽国志》。

三年十月の初回の出立から、ここまで、史書の記述が錯綜している。ここでは推測も交えて記事を配列した。

同年秋、安東将軍王渾が上表して孫晧が北上を企てているので警戒すべきと述べたので、会議の結果、征討は翌六年まで待つことになった。何攀は上疏した。「孫晧が侵出してくることは絶対にございませぬ。現在の厳戒状態のまま攻撃すれば、たやすく勝利できましょう。」中書令張華が下屋敷に宿泊するよう命じ、いろいろと批判をぶつけたが、何攀はすべて説明した《華陽国志》。

太康元年(二八〇)《晋書王濬伝》、何攀はさらに上奏した。「王濬は忠烈な人柄であり、ご命令を受けたならば必ずや成果を出しましょう。その官位称号を高めてやるのがよろしゅうございます。」これが認められ、王濬は詔勅により平東将軍・督二州事に任じられた《華陽国志》。

孫晧が王濬に降服したとき、王渾が腹を立てて王濬を攻撃しようとしたので、何攀は、孫晧の身柄を王渾のもとへ届けるよう王濬に勧めた。そのおかげで事態は収束した。何攀は輔国大将軍王濬の司馬となり、関内侯に封ぜられた。[ケイ]陽の県令に転任して十通りの便宜策を提案し、たいそうな名声を博し、廷尉評に叙任された。

『華陽国志』では、『論時務』五篇を進呈して[ケイ]陽の県令に叙任され、それから廷尉評に昇進した、とする。また『晋書』では「廷尉平」と作るが、任乃強に従って「廷尉評」と改める。

廷尉の諸葛沖は何攀が蜀出身であるということで軽蔑していたが、一緒に裁判に携わってみて諸葛沖はようやく彼に感服した。あるとき城門の下関を開いた盗賊がいて、法律では極刑に相当したが、何攀は「上関こそが主体なのであり、下関は添え物に過ぎませぬ。もし上関を開く者があったなら、どんな刑罰を与えるのでしょうか?」と主張し、その結果、死刑は免じられた。何攀の主張はすべて正論であった《華陽国志》。宣城太守に昇進したが就任せず、散騎侍郎に転任した。

太傅楊駿が政権を握って親族を取り立て、褒賞をばらまいて恩着せがましい態度を取っていた。何攀はそれを間違ったことだと考え、石崇とともに弾劾奏上したが、帝は聞き入れなかった。恵帝が楊駿を討伐したとき、何攀は傅祗・王[ガイ]らとともに楊駿に招かれて屋敷内にいたが、楊駿の一味が大騒ぎしている隙に垣根を飛びこえ、天子のお側に馳せ参ずることができた。天子が何攀を翊軍校尉に任じて熊渠兵を授けると、何攀は一戦交えただけで楊駿を斬った《華陽国志》。

元康元年(二九一)《華陽国志》、楊駿誅伐の功績により西城侯一万戸に封ぜられ、絹一万匹を賜り、弟の何逢が平郷侯、兄の子何逵が関中侯に取り立てられたが、何攀は封戸と絹の半分を固く辞退し、それ以外のものでも内外の親戚に分け与え、ほとんど自分のものにはしなかった。

しばらくして東羌校尉に出向した。西方の異民族が辺境を荒らすので長史楊威に討伐させたところ、楊威は何攀の指示に背いて敗北した。そのため中央に徴し返されて越騎校尉を領した。武器庫が火事になったとき、百官はみな消火に駆けつけたが、何攀だけは兵士を率いて宮殿を守護したので、また絹五百匹を賜った。河南尹を領したのち、揚州刺史・仮節に昇進した《華陽国志》。

在職三年のうちに教化は行き届いたが、征虜将軍石崇が「東南に兵気が見えますゆえ、遠国の人間を用いてはなりませぬ」と上表したため、中央に徴し返されて大司農を拝命し、三州の州都を兼ねることになった。何攀は病気にかかって物忘れと勘違いが多く、人材選考ができなくなりましたので、職務を任煕・費緝らに任せとうございますと上表したが、許可されなかった《華陽国志》。宝剣・赤靴を賜り《華陽国志》、[エン]州刺史・鷹揚将軍への転任の沙汰を被ったが、固く辞退して就任せず、太常成粲・左将軍卞粋が説得し、詔勅によりお叱りを蒙っても、何攀は病気を口実に飽くまで就任しなかった。

州都は大中正と同じ。三州のうち二つは梁州・益州であることは後文に明記されている。

そのころ帝室の政治は衰え、忠実正直な者は多くが危害を被っていた。また諸国の王たちが次から次へと挙兵し、仲間を駆りあつめていた。何攀は門を閉ざして治療に専念し、世間の仕事に関わろうとしなかった《華陽国志》。趙王司馬倫が帝位を簒奪し、使者をやって何攀を召し寄せたときも、何攀はまた病気が重いからと申し述べた。司馬倫が腹を立てて殺そうとしたので、何攀はやむを得ず病身を押して参詣し、洛陽で卒去した。ときに五十八歳。朝廷では彼を三公に立てようと協議しているところだった《華陽国志》。天子は哀悼の意を尽くし、司空の印綬を追贈し、桓公と諡した《華陽国志》。

『華陽国志』では享年を五十七歳とする。

何攀はいつも冷静を心がけ、職務に携わっては静粛であり、人物を愛好して儒者を尊重した。梁州・益州の中正(州都)であったときは、見過ごされ、冷遇されている者を抜擢した。巴西の陳寿・閻乂、[牛建]為の費立らはみな西方の名士であったが、郷里の人々から誹謗されたため、十年余りもご無沙汰であった。何攀が曲直を明らかにしたので、みな疑いを晴らすことができたのである。また東羌校尉を務めていたとき、[言焦]同を三公・大将軍の幕府に推挙している《華陽国志》。

何攀は高官でありながら実家ではひどく質素な暮らしぶりで、女中や楽人も持たず、ひたすら貧困の救済をわが務めとしていた。安楽公(劉?)が淫乱にふけり道義を失ったとき、何攀は王崇・張寅とともに手紙を送り、「文立の言葉を思い出してください」と諫めた《華陽国志》。

『華陽国志』では「大司農・西城公何攀恵興、司農は計略をめぐらし、張良・陳平の面影があった」「明らかなる才略、大司農・西城公何攀、字恵興」と称えている。

【参照】閻乂 / 王[ガイ] / 王濬 / 王崇 / 何逵 / 何璋 / 何包 / 何逢 / 胡奮(平南) / 皇甫晏 / 司馬衷(恵帝・天子) / 司馬倫 / 諸葛沖 / [言焦]同 / 任煕 / 成粲 / 石崇 / 宗廷 / 孫晧 / 張寅 / 張華 / 張弘 / 張良 / 陳寿 / 陳平 / 裴秀 / 費緝 / 費立 / 傅祗 / 文立 / 卞粋 / 羊[示古] / 楊威 / 楊駿 / 劉 / 安楽県 / 益州 / [エン]州 / 会稽郡 / 夏口 / 河南尹 / 京口 / 荊州 / 桂陽郡 / [ケイ]陽県 / [牛建]為郡 / 呉 / 江陵県 / 呉会 / 寿春県 / 湘東郡 / 襄陽県 / 蜀 / 蜀郡 / 徐州 / 青州 / 西城県 / 西陵県 / 宣城郡 / 桑浦 / 趙国 / 長江 / 長沙郡 / 巴丘 / 巴西郡 / 巴東郡 / [卑β]県 / 武昌県 / 武陵郡 / 平郷 / 秣陵県 / 揚州 / 予州 / 洛陽県 / 楽郷 / 梁州 / 零陵郡 / 淮水 / 安東将軍 / 越騎校尉 / 王 / 鷹揚将軍 / 仮節 / 河南尹 / 牙門 / 桓公 / 関内侯(関中侯) / 郷侯 / 県令 / 公 / 左将軍 / 散騎侍郎 / 参軍事 / 三公 / 司空 / 刺史 / 従事 / 州都 / 主簿 / 上計吏 / 征南大将軍 / 征虜将軍 / 大司農 / 太守 / 太常 / 大将軍 / 太傅 / 中書令 / 中正 / 長史 / 廷尉 / 廷尉評 / 東羌校尉 / 督州事 / 平東将軍 / 平南将軍(平南) / 別駕 / 輔国大将軍 / 翊軍校尉 / 龍驤将軍 / 列侯 / 郎中 / 論時務 / 王佐之才 / 諡 / 下関 / 上関 / 赤(赤靴) / 屯田 / 幕府 / 熊渠兵

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