三国志モバイル人物伝

武周Wu Zhou

ブシュウ
(ブシウ)

(?〜?)
魏衛尉・光禄大夫

字は伯南。沛国竹邑の人《胡質伝》。武[β亥]・武韶・武茂の父《胡質伝・晋書武[β亥]伝》。

武周は下[丕β]県令を務めていたとき、徐州刺史臧霸の尊敬を受け、臧霸がみずから武周の官舎を訪れるほどだった。徐州の部従事に不法行為があったとき、武周はそれを知るなり逮捕して取り調べをした。臧霸はますます武周を愛した《臧霸伝》。

のちに武周は張遼の護軍に任じられたが、目付きが悪いということで張遼に憎まれるようになった。張遼は治中従事胡質を招聘したが、胡質が「武伯南どのは正直者であり、むかし将軍は口を極めて褒めておられたのに、いまは眼差しが気に食わぬといって仲違いされました。ましてや胡質は才能がないのですから、どうして最後まで仲良くできましょう?」と答えたので、張遼はその言葉に感銘して武周と仲直りした《胡質伝》。

延康元年(二二〇)十月癸丑、武周は侍御史であったが、督軍御史中丞司馬懿、侍御史鄭渾・羊秘・鮑[員力]らとともに漢朝から受禅するよう魏王曹丕に勧めている《文帝紀》。

武周は魏の衛尉・光禄大夫まで昇った《胡質伝・晋書武[β亥]伝》。

武周には武[β亥]・武韶・武茂と三人の子があったが、みな器量の持ち主で、優劣が分からなかった。同郡の劉公栄は人物を見抜く能力があったので、武周が訊ねてみると、「いずれも国士でございますが、元夏(武[β亥])の器量が最も優れ、三公に次ぐ地位まで昇るでありましょう。叔夏・季夏(武韶・武茂)も常伯・納言(常侍・尚書)を下回ることはございますまい」とのことであった。はたして武[β亥]は尚書左僕射・儀同三司、武韶は散騎常侍、武茂は侍中・尚書まで昇進したのであった《胡質伝》。

【参照】胡質 / 司馬懿 / 曹丕 / 臧霸 / 張遼 / 鄭渾 / 武[β亥] / 武韶 / 武茂 / 鮑[員力] / 羊秘 / 劉昶(劉公栄) / 下[丕β]県 / 漢 / 魏 / 徐州 / 竹邑県 / 沛国 / 衛尉 / 王 / 儀同三司 / 県令 / 光禄大夫 / 護軍 / 散騎常侍 / 三公 / 侍御史 / 刺史 / 侍中 / 尚書 / 尚書左僕射 / 常伯 / 治中従事 / 督軍御史中丞 / 納言 / 部従事

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