三国志モバイル人物伝

武[β亥]Wu Gai

ブガイ

(?〜?)
晋尚書左僕射・左光禄大夫・開府・儀同三司・薛定侯

字は元夏。沛国竹邑の人。武周の子、武輔の父、武韶・武茂の兄。

武[β亥]は落ち着きがあって聡明、器量の持ち主であり、若いころから名誉を得ていた。また弟の武韶・武茂にも総角(あげまき)のころから知られていて、親戚や郷里の人々も彼らの優劣は分からなかった。同郡の劉公栄には人物を見抜く力があり、あるとき武周を訪ねて三兄弟を見ると「いずれも国士でございますが、元夏が最も優れていて補佐の才能があり、出世を心がければ三公に次ぎましょう。叔夏・季夏(武韶・武茂)も常伯・納言(常侍・尚書)を下回ることはございますまい」と言った。

武[β亥]は若いころから人物評価を好み、潁川の陳泰と友人付き合いをした。魏の明帝(曹叡)の時代、次第に昇進して下[丕β]太守となった。景帝(司馬師)が大将軍になると彼を招いて従事中郎とし、次第に司隷校尉へと昇進、太僕卿に転任した。最初、亭侯に封ぜられていたが、五等が開設されると改めて薛県侯に封ぜられた。

文帝(司馬昭)はたいそう親愛尊敬し、しばしば同時代の人物について議論した。あるとき(文帝が)陳泰とその父陳羣とではどちらが優れているかと訊ねたとき、「風雅に通じてのびやか、天下の教化を自分の任務と認める点では(陳泰は父に)及びません。統率に明るく簡潔さを極め、功業を成し遂げる点では上回っております」と《陳羣伝》、武[β亥]はそれぞれの長所を称えたうえで、陳羣・陳泰にほぼ優劣なしと答えた。文帝もその通りだと思った。

泰始年間(二六五〜二七五)の初め、尚書を拝命して吏部(人事)をつかさどり、昇進して左僕射・左光禄大夫・開府・儀同三司となった。武帝(司馬炎)は父文帝が亡くなると、礼法に定める期間を過ぎても服喪しつづけた。武[β亥]は太宰司馬孚らと連名でたびたび諫めたが、武帝は聞き入れなかった《晋書礼志》。

武[β亥]は宿老旧臣であり名声官位も高いものであったが、自分では佐命の功績(晋の建国を推進すること)もないし、それに魏の時代には大臣でもあったからと考えており、やむを得ず官位には就いたものの、深く謙譲の気持ちを抱き、終始、清潔さを貫いた。当時の人々は美しい話だと思った。

官位に就いたまま卒去し、「定」と諡された。司隷校尉李憙は「故の立進令劉友、尚書僕射武[β亥]らは官用の稲田を押領しましたので、武[β亥]には悪い諡を与えるべきです」と言上したが、詔勅により「この事件を調査したところ劉友に責任がある。武[β亥]らはその罪を繰り返したわけではなく、責任を問うてはならない」と斥けられた《晋書李憙伝》。

【参照】司馬炎 / 司馬師 / 司馬昭 / 司馬孚 / 曹叡 / 陳羣 / 陳泰 / 武周 / 武韶 / 武輔 / 武茂 / 李憙 / 劉昶(劉公栄) / 劉友 / 潁川郡 / 下[丕β]国(下[丕β]郡) / 魏 / 薛県 / 竹邑県 / 沛国 / 開府 / 儀同三司 / 侯(県侯) / 左光禄大夫 / 散騎常侍(常伯) / 三公 / 従事中郎 / 尚書(納言) / 尚書左僕射 / 司隷校尉 / 太宰 / 太守 / 大将軍 / 太僕(太僕卿) / 定侯 / 亭侯 / 立進令 / 諡 / 五等 / 佐命之功 / 人倫(人物評価) / 総角 / 知人之鑑(人物を見抜く力) / 列侯

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