三国志モバイル人物伝

王宏Wang Hong

オウコウ
(ワウクワウ)

(?〜192)
漢右扶風太守・緜竹侯

字は長文《後漢書王允伝》。太原郡祁の人で、司徒王允の兄である《後漢書王允伝集解》。王凌の父であろうか。また「王宏は河東太守・緜竹侯だったが、叔父王允が遭難すると官を捨てて北方の新興に逃れた」とする説もある《王凌伝集解》。

若いころから気力があり、些細な行いにはこだわらなかった。はじめ弘農太守となり、冀州刺史に転任した。酷薄な性質だったので、私信を出して豪族たちと交わろうとはしなかった。そこで賓客たちは「王(宏)はひとり坐っている」と言っていた。のちに弟の司徒王允によって右扶風太守に任じられた。このとき同郡の宋翼も左馮翊太守となっており、李[イ寉]らは長安に入ったとき、王允を殺そうと望んだものの二つの郡を恐れて手を下せなかった《後漢書王允伝・同集解校補》。

そこで李[イ寉]らは勅命によって王宏・宋翼を召し寄せた。王宏は宋翼に使者を出して「郭[シ巳]・李[イ寉]は我ら二人が外にいるから王公(王允)に危害を加えないのだ。今日お召しに応じれば明日にも一族皆殺しにされよう。出ていくわけにはいくまい」と言ったところ、宋翼は「禍福は予測しがたいとはいえ、王命に背くわけにはいかぬ」と答えた。王宏はまた「董卓に対する義兵が鼎のごとく沸き立っている。ましてや董卓の手下に過ぎないのだ。もし兵を挙げて君側の悪人を討伐すれば、山東も必ず呼応するだろう。これこそ禍を転じて福となすの計略だ」と説得したが、宋翼は従わなかった。王宏は独立することもできず、宋翼とともにお召しに応じた《後漢書王允伝》。

王宏は廷尉に下され、李[イ寉]は王允を王宏・宋翼とともに収監した。もともと王宏は司隷校尉胡[禾中]と仲が悪く、王宏が獄に下されたとき、胡[禾中]は(担当役人に)彼を殺すよう脅迫した。王宏は死刑の命が下されると罵って言った。「宋翼は豎儒に過ぎず大計を議するには不足だった。胡[禾中]は他人の禍を望みとしているが、やがて禍は我が身にふりかかるであろう」。王宏は王允・宋翼とともに殺害された。そののち胡[禾中]は眠るたび、いつも王宏が現れて杖で彼を叩いた。そのため病気となって数日で死んでしまった《後漢書王允伝》。

【参照】王允 / 王凌 / 郭[シ巳] / 胡[禾中] / 宋翼 / 董卓 / 李[イ寉] / 河東郡 / 祁県 / 冀州 / 弘農郡 / 山東 / 司隷 / 新興郡 / 太原郡 / 長安県 / 馮翊郡(左馮翊郡) / 扶風郡(右扶風郡) / 緜竹県 / 県侯 / 刺史 / 司徒 / 司隷校尉 / 太守 / 廷尉 / 族(一族皆殺し)

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