三国志モバイル人物伝

鄭度Zheng Duo

テイタク

鄭度

鄭度Zheng Du

テイド

(?〜?)
漢益州従事

劉璋の従事。広漢郡緜竹の人《華陽国志》。

字が不明であるため、名を「ド」と読むべきか「タク」と読むべきか分からない。ここでは仮に前者としておく。

建安十七年(二一二)、葭萌に駐屯していた劉備が軍勢を返し、益州牧劉璋を襲撃した。益州従事の鄭度は進言した。「左将軍(劉備)は遠路はるばる我らを攻撃しておりますが、軍勢は一万に満たず、人々の信頼も得ておりませんし、野生の植物を食料にあてる有様で、輜重車などはございませぬ。そこで計略を練りますと、巴西・梓潼の民衆をすべて駆りたてて[フ]水以西に籠らせ、その地の倉庫や野生の植物をことごとく焼きはらい、防塁を高めて塹壕を深め、静かに彼らを待ちうけるに越したことはございませぬ。彼らが到来して戦いを挑んできても、承知してはなりませんぞ。しばらくすれば物資もなくなり、百日にならぬうちに、必ずや自分の方から敗走いたします。逃げるのを追撃すれば、捕虜にできること間違いなしです。」《法正伝》

『霍峻伝』『華陽国志』では、梓潼郡は霍峻が葭萌城を守った功績により劉備が益州を平定したのちに広漢郡より分割設置されたとするが、ここでは巴西と並んで梓潼の名が挙げられており、劉璋の時代、すでに梓潼郡が設けられていた可能性が考えられる。

この言葉を噂に聞いて劉備は心配になり、法正に訊ねたが、法正は「決して採用されることはございませんから、ご安心くだされ」と答えた。劉璋はけっきょく部下たちに向かって「吾は敵軍を防いで民衆を守るとは聞いておるが、民衆を騒がせて敵軍を避けるなど聞いたことがないぞ」と述べ、法正の言ったとおりであった。そのうえ鄭度は罷免され、その計略が採用されることはなかった《法正伝》。劉備が行く先々で物資を手に入れられたのは、そのおかげなのである《華陽国志》。

『華陽国志』では、このことを「鄭度は正しき言葉を進上したが、忠義なる策謀が採用されることはなかった。いわゆる天の時でもあるのだろう。しかしそれ以前に人間(劉璋)による不幸であった」と評している。

【参照】法正 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 葭萌県 / 広漢郡 / 梓潼郡 / 巴西郡 / [フ]水 / 緜竹県 / 左将軍 / 従事 / 牧 / 華陽国志

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