三国志モバイル人物伝

鄒靖Zou Jing

スウセイ

(?〜?)
漢破虜校尉

北軍中候、のち破虜校尉。

中平二年(一八五)三月、辺章・韓遂・北宮伯玉らが三輔を侵略すると、左車騎将軍皇甫嵩がその鎮圧にあたり、烏丸兵三千人を徴発したいと要請した。このとき鄒靖は北軍中候であったが、「烏丸兵は弱いので鮮卑兵を募集すべきです」と上奏したため、その案件は四つの幕府(三公と大将軍?)に下された《後漢書霊帝紀・同応奉伝》。

大将軍掾韓卓が鄒靖に同調して「烏丸族は人数少なく、鮮卑族とは何世代にも渡る仇敵です。もし烏丸から徴発すれば鮮卑は必ずやその本国を襲撃いたし、烏丸は軍務を投げだして救援に帰るでありましょう。戦力の足しにならないばかりか全軍の士気に関わります。鄒靖は辺境近くで暮らしていて彼らの嘘偽りを熟知しておりますゆえ、鄒靖に命じて鮮卑から軽騎兵五千人を募集させれば必ずや敵軍を打ち破ることができましょう」と述べたが、車騎将軍掾の応劭が鮮卑兵は戦地で略奪を働くであろうと反対したため、鄒靖の意見は斥けられた《後漢書応奉伝》。結局、皇甫嵩は勝利することができず罷免された《後漢書霊帝紀・同皇甫嵩伝》。

のちに鄒靖は校尉となり、劉備を率いて黄巾賊を討伐した《先主伝》。破虜校尉として公孫[王贊]とともに胡族を追討したが、鄒靖は賊軍に包囲されてしまった。そこへ公孫[王贊]が軍勢を返して救援に駆けつけたので、賊軍は包囲を解いて敗走した。公孫[王贊]らは勝利に乗じて追撃し、日が暮れてからも松明を掲げて彼らを北方へ追い払った《御覧引英雄記》。

鄒靖の黄巾および胡賊征討の時期は明らかでないが、公孫[王贊]が夜を徹して胡族を追撃したのは、『後漢書』霊帝紀および公孫[王贊]伝によれば、中平五年十一月の石門戦勝のあと管子城における二百日以上の籠城を経たのち、降虜校尉・都亭侯を拝命して以後のことであり、よって鄒靖が彼とともに行動したのもそれ以降である可能性が高い。石門から二百日を数えると翌六年六月以降となる。ただし『後漢紀』では六年三月に都亭侯となって北辺を鎮めたとあり、二百日籠城の始まりがそれ以降であるとすれば四ヶ月後の十月まで下ることになるだろう。しかし公孫[王贊]は降虜校尉になると同時に遼東属国長史にも任じられており、その職権からすれば遼西郡にある管子城へ入ることはできないため、二百日籠城は校尉拝命以前であろうと思われる。いずれにしても、ときの天子が霊帝から少帝、献帝へと目まぐるしく変遷した時期にあたる。『三国志』先主伝によれば、劉備は霊帝の時代、大将軍何進の募兵に助力するなどしており、鄒靖とともに黄巾を討伐したのはそれ以前のことであるから、鄒靖の胡賊追討が黄巾討伐以後であることはほぼ確実であろう。

【参照】応劭 / 韓遂 / 韓卓 / 公孫[王贊] / 皇甫嵩 / 辺章 / 北宮伯玉 / 劉備 / 三輔 / 掾 / 校尉 / 左車騎将軍 / 車騎将軍 / 大将軍 / 破虜校尉 / 北軍中候 / 烏丸族 / 黄巾賊 / 胡族 / 鮮卑族 / 府(幕府)

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