三国志モバイル人物伝

蘇僕延Supuyan

ソボクエン

(?〜207)
漢遼東烏丸単于

烏丸族。遼東の大人、のち峭王を称す《後漢書烏丸伝》。「速僕丸」「速附丸」とも書かれる《武帝紀・烏丸伝》。

『三国志』烏丸伝では遼東属国の大人とするが、『後漢書』では遼東の大人とある。どちらが正しいのか分からないが、袁紹の文書に「遼東属国の率衆王頒下」という者が見えており《烏丸伝》、一郡一王であったと見て、ここでは遼東の大人とした。

蘇僕延は遼東に一千戸余りの部落を抱え、「峭王」を自称していた《烏丸伝・後漢書同伝》。

中平三年(一八六)、車騎将軍張温は辺章らを討伐するにあたり、幽州から烏丸突騎三千人を動員したが、烏丸兵はみな途中で離叛して故郷に逃げ帰った。前の中山国の相張純は、密かに前の泰山太守張挙に「いま烏丸が離叛して涼州も蜂起したが、朝廷は制圧することができない。洛陽で双頭の子供が産まれたというが、それは天下にもう一人の君主が現れる予兆だ。二人で烏丸の軍勢を率いて挙兵すれば、偉大なる事業を成し遂げることができよう」と告げた。翌四年、張純らは烏丸の大人たちと手を結んで薊の城下に攻め込み、護烏桓校尉箕稠・右北平太守劉政・遼東太守楊終らを殺した。軍勢は十万人以上に膨れあがり、肥如に屯した《後漢書劉虞伝》。

張挙は天子、張純は弥天将軍を称し、蘇僕延に歩騎五万人を率いて青州・冀州に攻め込ませた。蘇僕延は清河・平原を陥落させて官吏・人民を殺害した《後漢書劉虞伝》。

翌五年、劉虞が幽州牧として薊城に着任し、駐留軍を解散させて恩愛信義の施しを心掛けた。劉虞は蘇僕延らのもとに使者を出し、朝廷の恩寵は異民族にも及んでいることを説明し、正道に復帰する手立てを整えてやったので《後漢書劉虞伝》、蘇僕延は劉虞の恩徳に心服した《後漢書公孫[王贊]伝》。張挙・張純は逃亡し、食客に殺された《後漢書劉虞伝》。

初平年間(一九〇〜一九四)、遼西烏丸の丘力居が死んで従子の[トウ]頓がその後を継ぐと、三郡の烏丸はみな彼の命令に従うようになった《烏丸伝・後漢書同伝》。袁紹と公孫[王贊]が紛争を始めると、[トウ]頓は袁紹のもとに使者を送って連合し、袁紹の援軍として公孫[王贊]を攻撃、これを打ち破った。袁紹は偽の詔勅を発行して[トウ]頓・難楼・蘇僕延・烏延らに単于の印綬を授けてやった《烏丸伝・後漢書同伝》。のちに丘力居の子楼班が成長すると、蘇僕延・難楼は配下の軍勢を率いて楼班を単于に推し立て、[トウ]頓を王に降格した《烏丸伝・後漢書同伝》。

初平四年(一九三)十月、劉虞が公孫[王贊]に殺害されると、劉虞の従事鮮于輔は閻柔を烏桓司馬に擁立し、漢族・胡族を問わず数万人をかき集めた。蘇僕延は烏桓族および鮮卑族の騎兵七千人を率い、鮮于輔とともに劉虞の子劉和を迎え入れ、袁紹の将麹義と合流して公孫[王贊]を攻撃、興平二年(一九五)、鮑丘にて公孫[王贊]を打ち破った《後漢書公孫[王贊]伝》。

袁紹の死後、曹操がその子袁譚を討伐したとき、柳城の烏丸が騎兵を出して袁譚を支援しようとした。曹操はかつて烏丸を仕切っていたことのある牽招を使者として柳城に派遣した。牽招が到着したとき、蘇僕延は柳城にいて武装を固め、五千騎を率いて袁譚支援のために出陣するところだった。また単于の印綬を贈るため遼東太守公孫康の使者韓忠が来ており、蘇僕延は酋長どもを集めて酒宴を開いていた《牽招伝》。

蘇僕延は牽招に告げた。「むかし袁公(袁紹)は天子の勅命によって我を単于に取り立てたと言っていたが、いま曹公(曹操)がまた天子に進言して我を本当の単于に取り立ててやろうと言う。遼東もまた印綬を持ってきた。だれが正統なのか?」牽招は「袁公は詔勅によって任命する権限を持っておりましたが、天子のご命令により曹公が交代いたしました。天子に進言して本当の単于に取り立てるというのは真実です。遼東ごとき卑しき郡がどうして任命を行えましょうか」と答えた《牽招伝》。

韓忠が「わが遼東は軍勢百万、扶余・穢貊が味方に付いている。当今の情勢をみれば強さにおいて右に並ぶ者はない。曹操だけがどうして正統だと言えるのか?」と言うので、牽招は韓忠を怒鳴りつけ、「曹公は天子を奉戴して叛逆者を討伐しておるのだ。お前らは険阻遠方を頼みにして王命に違背しているのは誅殺に相当する罪だ。それでも慢心して大人を中傷するつもりか!」と言い、すぐさま韓忠を捕まえて斬首しようとした《牽招伝》。

左右の者たちは顔色を失い、蘇僕延は驚いて牽招にしがみつき、韓忠を助けてやってくれと頼んだ。牽招は席に戻り、蘇僕延たちに利害得失を説明してやると、みな座席からすべり降りて平伏した。蘇僕延は韓忠を遼東へ帰し、騎兵たちの武装を解かせた《牽招伝》。

曹操が袁譚を斬り、その弟袁尚を打ち破ると、袁尚は[トウ]頓のもとに身を寄せた。建安十二年(二〇七)、曹操は直々に出馬して柳城で[トウ]頓と戦い、これを斬った《武帝紀・烏丸伝・後漢書同伝》。蘇僕延・楼班・烏延らは部族の者たちを見捨て、袁尚に付き従って遼東に逃走したが、遼東太守公孫康は彼らの首を斬って曹操のもとへ送り届けた《武帝紀・烏丸伝》。

【参照】烏延 / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 閻柔 / 韓忠 / 箕稠 / 麹義 / 丘力居 / 牽招 / 公孫康 / 公孫[王贊] / 鮮于輔 / 曹操 / 張温 / 張挙 / 張純 / [トウ]頓 / 難楼 / 辺章 / 楊終 / 劉協(天子) / 劉虞 / 劉政 / 劉和 / 楼班 / 右北平郡 / 冀州 / 薊県 / 清河国 / 青州 / 泰山郡 / 中山国 / 肥如県 / 扶余 / 平原郡 / 鮑丘 / 幽州 / [各隹]陽県洛陽県) / 柳城 / 涼州 / 遼西郡 / 遼東郡 / 穢貊 / 護烏桓校尉 / 護烏桓司馬(烏桓司馬) / 車騎将軍 / 従事 / 相 / 単于 / 太守 / 弥天将軍 / 牧 / 烏丸族 / 鮮卑族 / 大人 / 突騎

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