三国志モバイル人物伝

烏延Wuyan

ウエン

(?〜207)
漢右北平烏丸単于

烏丸族。右北平の大人、のち汗魯王を称す《後漢書烏丸伝》。

霊帝の御代の初め、烏延は右北平に八百戸余りの部落を抱え、「汗魯王」を自称した。勇敢で計算高かったという《烏丸伝・後漢書同伝》。

袁紹による単于任命書には「右北平の率衆王汗盧」とある《烏丸伝》。

初平年間(一九〇〜一九四)、遼西烏丸の丘力居が死んで従子の[トウ]頓がその後を継ぐと、遼東・遼西・右北平三郡の烏丸はみな彼の命令に従うようになった《烏丸伝・後漢書同伝》。袁紹と公孫[王贊]が紛争を始めると、[トウ]頓は袁紹のもとに使者を送って連合し、袁紹の援軍として公孫[王贊]を攻撃、これを打ち破った。袁紹は偽の詔勅を発行して[トウ]頓・難楼・蘇僕延・烏延らに単于の印綬を授けてやった《烏丸伝・後漢書同伝》。

袁紹の死後、その子袁尚は曹操に敗れて[トウ]頓のもとに身を寄せた。建安十二年(二〇七)、曹操は直々に出馬して柳城で[トウ]頓と戦い、これを斬った《武帝紀・烏丸伝・後漢書同伝》。烏延・蘇僕延・楼班らは部族の者たちを見捨て、袁尚に付き従って遼東に逃走したが、遼東太守公孫康は彼らの首を斬って曹操のもとへ送り届けた《武帝紀・烏丸伝・後漢書同伝》。

【参照】袁尚 / 袁紹 / 丘力居 / 公孫康 / 公孫[王贊] / 蘇僕延 / 曹操 / [トウ]頓 / 難楼 / 劉宏(霊帝) / 楼班 / 右北平郡 / 柳城 / 遼西郡 / 遼東郡 / 単于 / 太守 / 烏丸族

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