三国志モバイル人物伝

李堪Li Kan

リカン

(?〜211)

河東郡の人《張魯伝》。「李〓」とする本もある《武帝紀集解》。

『三国志演義』の表現に誘われて西涼の人と見なされているが、実際は河東の人なのである。

興平年間(一九四〜一九六)に関中が混乱したとき、程銀・侯選らとともにおのおの千家余りの部落を有した《張魯伝》。建安十六年(二一一)、司隷校尉鍾[ヨウ]が漢中の張魯を攻めようとしていることを知ると、その矛先が自分たちに向けられているのではないかと疑い、馬超・韓遂・楊秋・成宜らとともに挙兵した。しかし諸将は曹操の計略によって不和となり、曹操が前後から挟撃したため大敗、李堪・成宜らは戦死した《武帝紀・馬超伝》。

【参照】韓遂 / 侯選 / 鍾[ヨウ] / 成宜 / 曹操 / 張魯 / 程銀 / 馬超 / 楊秋 / 河東郡 / 漢中郡 / 関中 / 司隷校尉

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