三国志モバイル人物伝

橋[ズイ]Qiao Rui

キョウズイ
(ケウズヰ)

(?〜197)
仲大将

袁術の大将。「喬[ズイ]」ともある《討逆伝》。

袁術は揚州刺史陳温を殺してその州を手に入れると、張勲・橋[ズイ]らを大将軍に任じた《袁術伝》。橋[ズイ]らは孫策を高く評価していたという《討逆伝》。のちに袁術は橋[ズイ]とともに[キ]陽を包囲したが、[キ]陽は曹操に味方して固守している《何[キ]伝》。

このとき袁術はまだ僭号しておらず大将軍を任命することはできない。「大将」の誤りだろう。『何[キ]伝』では[キ]陽包囲の記事を建安二年以前に置き、またこのとき何[キ]が「臣」ではなく「吾」と称しており、事件が僭号以前であったことはほぼ確実である。

建安二年(一九七)、袁術は帝号を称し、韓胤を使者としてそれを呂布に知らせるとともに、彼の女を我が子の妻へ迎えようとした。ところが呂布は韓胤を捕らえて許へ送り飛ばしてしまったため、袁術は怒り、大将張勲・橋[ズイ]ら、それに韓暹・楊奉に加勢させ、合わせて歩騎数万人を七手から進めて呂布を攻撃させた《袁術伝・後漢書同伝・同呂布伝》。

呂布はこのとき歩兵三千人と騎馬四百匹しか持っていなかった。そこで韓暹・楊奉に手紙を送り、「両将軍は御車警護、呂布は董卓誅殺と、ともに功名を挙げて竹帛に記されるべきであり、いま袁術が叛逆を企てておるうえは共同して誅伐すべきですのに、どうして賊軍と一緒になって呂布を討伐なさろうというのですか。いま力を合わせて袁術を打ち破り、国家の害を取り除くならば、天下に功績を挙げることになります。この機会を失ってはなりますまいぞ」と告げ、同時に袁術軍の物資を与えようと約束したので、韓暹らは大いに喜んだ《呂布伝》。

張勲・橋[ズイ]らは下[丕β]に進軍して陣を布き、呂布はそこから百歩離れたところまで進んだ。そのとき韓暹・楊奉の軍勢が時を同じくして反旗を翻し、袁術の将十人を斬ったので、袁術軍はさんざんに打ち破られ、橋[ズイ]は生け捕りにされ、川に落ちて死ぬ者数知れずという有様となった《呂布伝・後漢書同伝》。

生け捕りになったとするのは『後漢書』の説だが、『三国志』には見えず、また九月の条に橋[ズイ]の名が見えていることから『後漢書』の誤りと考えられている《集解》。

秋九月、袁術は陳国に侵出したが、曹操がみずから東征の途に就いたと聞いて、軍勢を棄てて逃走し、張勲・橋[ズイ]・李豊・梁綱・楽就を苦県に残して曹操を防がせた。曹操は于禁らとともに苦城を包囲、さらに[キ]陽を陥落させて張勲を敗走させ、橋[ズイ]以下四人を斬首した《武帝紀・于禁伝・後漢書袁術伝》。

[キ]陽を、『後漢書』李注が江夏郡[キ]春のこととするのは誤りで、これは沛国[キ]県を指しているのだが、「陽」を衍字とみる『通鑑』胡注も正しくない。沛国を流れる[キ]水の北岸という意味において[キ]県を指すのである《後漢書袁術伝集解》。『武帝紀』建安二年の条では橋[ズイ]の守った地名を記していない。同十八年の条に引く献帝の策命に「[キ]陽の戦役では橋[ズイ]が首を授けた」とあるが、『于禁伝』では「苦における橋[ズイ]包囲に従軍し、橋[ズイ]ら四将を斬った」とあり、彼の落命した場所が食い違っている。ここでは初め苦城で包囲を受け、逃走したのち改めて[キ]城に楯籠ったものと解す。しかし『何[キ]伝』では、[キ]陽が、陳郡の何[キ]と同郡とも言っており、[キ]県が陳国から遠く離れていることも含めて考えると、あるいは苦県の別名を[キ]陽といったのかも知れない。

【参照】于禁 / 袁術 / 楽就 / 韓胤 / 韓暹 / 曹操 / 孫策 / 張勲 / 陳温 / 董卓 / 楊奉 / 李豊 / 呂布 / 梁綱 / 下[丕β]国 / 許県 / [キ]陽 / 苦県 / 陳国 / 揚州 / 刺史 / 大将軍

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