三国志モバイル人物伝

[赤β]昭Hao Zhao

カクショウ
(カクセウ)

(?〜?)
魏雑号将軍・列侯

字は伯道。太原の人《明帝紀》。

[赤β]昭の人となりは雄壮で、若いころから軍隊に入り、部曲督となり、しばしば戦功を立てて雑号将軍に昇進した《明帝紀》。

延康元年(二二〇)五月、西平の麹演が隣郡と手を結んで叛乱を起こすと、張掖の張進は太守杜通を捕らえ、酒泉の黄華は太守辛機を受け入れず、それぞれ太守を自称して麹演に呼応した。もともと[赤β]昭は魏平とともに金城を守っていたが、詔勅を受けても西へ進むことができなかった。金城太守蘇則は郡の重役や[赤β]昭らを招いた《蘇則伝》。

蘇則が「賊徒は数多いが脅迫されて味方している者も多く、そこに付け込んで攻撃すれば善人を帰順させることができよう。大軍の到着を待っていても、善人と悪人を協力させるだけだ」と告げると、[赤β]昭らは彼に賛同した。そこで武威を救援し、武威太守毋丘興とともに張掖の張進に攻撃をかけた。麹演が軍勢を率いて援助を申し出てきたが、蘇則は会見の席上で彼を斬首した。蘇則・[赤β]昭らは張掖を包囲して陥落させ、張進を斬首した。黄華は恐怖して降服し、河西地方は平定された《蘇則伝》。

太和元年(二二七)春正月、西平の麹英が反乱を起こし、臨羌の県令と西都の県長を殺した。[赤β]昭・鹿磐が征討に派遣され、これを斬首した《明帝紀》。

翌二年春、諸葛亮が祁山に進出してきたが、曹真・張[合β]らの働きによって撃退された。曹真は諸葛亮が矛先を変えて次は陳倉に侵入してくるだろうと予測し、[赤β]昭・王生に陳倉を守らせ、その城を固めさせた《曹真伝》。[赤β]昭は新たに陳倉の下城を築き、元の上城に連結させた《明帝紀集解》。

同年冬十二月、諸葛亮は果たして陳倉に進出して[赤β]昭らを包囲した。諸葛亮はもともと陳倉城は粗悪だと聞いていたのに、実際に見てみるとよく整備されていたので意外に思い、その城内に[赤β]昭がいると知って大いに驚愕した。[赤β]昭が西方にあって威名を轟かせていたことを、諸葛亮はかねて知っていたからである。そして、これを攻撃するのは容易でないことを悟った《明帝紀集解》。

諸葛亮は[赤β]昭と同郷の[革斤]詳を使者として城外から降服を呼びかけさせた。[赤β]昭は矢倉の上から答えた。「魏の法律はあなたもよくご存じだろう。私の人柄もあなたはよくご存じだろう。私は国家の御恩を多大に受け、一門も栄えるようになった。あなたは何も言うな。ただ死を覚悟するだけだ。あなたは帰って諸葛亮に伝えてくれ、すぐに攻撃せよと。」《明帝紀》

『集解』に引く『魏略』によると、[赤β]昭は「むかし防備を固めて祁山を守ったときは安閑として用心が足らず、最終的に守りきることができたとはいえ今でも忸怩たる思いを抱いておるのだ」と語っている。諸葛亮を祁山から先へ進軍させなかったのは、[赤β]昭の功績だということになる。

諸葛亮は[赤β]昭の言葉を聞くと、ふたたび[革斤]詳を使者として「人数が同等ではないのだから自分から無駄死にするような真似はなさるな」と説得させた。[赤β]昭は[革斤]詳に告げた。「以前の言葉でもう決まりだ。私があなたのことを知っていても、矢はあなたのことを知らないのだぞ。」[革斤]詳は立ち去った《明帝紀》。

諸葛亮は軍勢数万を抱えており、[赤β]昭の軍勢がわずか千人余りであるし、東方からの救援軍もすぐには到着しないだろうと考え、そこで軍勢を進めて[赤β]昭を攻撃させた。まず雲梯・衝車を城壁に迫らせると、[赤β]昭は火矢を雲梯に向かって放ち、雲梯に乗っていた者をみな焼死させた。また石臼を繩で繋いで衝車に投げ落とすと、衝車は破壊された《明帝紀》。

諸葛亮が次に百尺もある井闌から城内に矢を注がせつつ、瓦礫で堀を埋め、城壁を直接よじ登らせようとしたが、[赤β]昭はまた内側に二重の壁を作った。諸葛亮が今度は地下道を作って城内に躍り出ようとすると、[赤β]昭は城内で地面を掘り、それを遮断した。こうして昼も夜も戦い続けて二十日余りが経ち、諸葛亮は万策尽き、救援軍が到着したので引き揚げていった《明帝紀》。[赤β]昭がよく守ったということで詔勅によるお褒めに与り、列侯の爵位を賜った《明帝紀》。

河西地域を鎮めること十年余り、民衆も夷族たちも畏服した《明帝紀》。帰国して帝に拝謁したとき、帝は彼を慰労しつつ中書令孫資の方を振り返り、「あなたの郷里にはこのような快男児がおって、将軍としてこれほど輝いておる。朕はもう何を心配することがあろうか」と言った。そこで大役に抜擢しようとしたところ、ちょうど病気にかかって[赤β]昭は亡くなった《明帝紀》。

[赤β]昭は息子[赤β]凱にこう遺言した。「私は将軍となり、将軍になどなるものではないと悟った。たびたび塚を発掘して木材を取り、戦争の道具に使ったから、手厚い埋葬が死者にとって無益であることを知った。必ず季節の服で埋葬せよ。それに人間は生きていてこそ居場所があるのだ。死んだらどこに住まうというのか(場所は関係ないのである)。ここは祖先の墓から遠く離れてはいるが、東西南北どこであろうとお前次第である。」《明帝紀》

【参照】王生 / [赤β]凱 / 毋丘興 / 魏平 / 麹英 / 麹演 / [革斤]詳 / 黄華 / 諸葛亮 / 辛機 / 蘇則 / 曹叡(帝) / 曹真 / 孫資 / 張[合β] / 張進 / 杜通 / 鹿磐 / 河西 / 魏 / 祁山 / 金城郡 / 酒泉郡 / 西都県 / 西平郡 / 太原郡 / 張掖郡 / 陳倉県 / 武威郡 / 臨羌県 / 県長 / 県令 / 雑号将軍 / 太守 / 中書令 / 列侯 / 雲梯 / 衝車 / 井闌 / 地突(地下道) / 部曲督

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