三国志モバイル人物伝

[禾中]払Chong Fu

チュウフツ

(?〜192)
漢太常

字は穎伯。河南尹[各隹]陽の人。[禾中][コウ]の子、[禾中]劭の父。

はじめ司隷従事となり、宛の県令に任じられた。そのころ南陽郡の役人たちはことあるごとに休暇を取っては娯楽に耽り、市井の百姓たちに迷惑がられていた。[禾中]払は外出中に彼らと遭遇すると、必ず馬車を下りて公式の敬礼を行い、そうして彼らに恥じらいを覚えさせようとした。そのため外出しようとする者はいなくなった。その統治ぶりが有能であったと評判になり、次第に昇進して光禄大夫になった。

潁川太守を務めていたころ、劉翊を招いて功曹に任じ、はなはだ彼を敬愛した。郡民の黄綱が程夫人の権勢を嵩にかけて「山沢経営の独占を認めてほしい」と求めてきたので、[禾中]払がそれについて訊ねると、劉翊は「(古来の原則として)名山大沢に封侯しないのは民衆のためでございましょう。明府(知事どの)がお認めになれば、おべっか使いとの汚名を被ります。そうやって災禍を引きよせるならば、ご令息の申甫([禾中]劭)どのは(明府と親子の縁を切り、もし明府が処刑されたとしても)孤児になったのではないと自認することになります」と答えた。[禾中]払はその言葉を採用して黄綱に荷担しなかった《後漢書劉翊伝》。

初平元年(一九〇)、荀爽の後任として司空となった。翌年、地震が起きたため罷免され、太常に復職した。

同三年六月《後漢書献帝紀》、李[イ寉]・郭[シ巳]が反乱を起こして長安城が陥落すると、百官らの多くは戦闘を避けようとしたが、[禾中]払は剣を振りまわしながら飛び出し、「国家の大臣となりながら戦争を止めさせ暴虐を取り除くこともできず、賊徒どもの凶器が宮殿に突き付けられているというのに、逃げてどこへ行こうというのか!」と言い、とうとう戦ったすえに死んだ。

【参照】郭[シ巳] / 黄綱 / 荀爽 / [禾中][コウ] / [禾中]劭 / 程夫人 / 李[イ寉] / 劉翊 / 潁川郡 / 宛県 / 河南尹 / 長安県 / 南陽郡 / [各隹]陽県 / 県令 / 功曹 / 光禄大夫 / 司空 / 従事 / 司隷校尉 / 太守 / 太常

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