三国志モバイル人物伝

費観Fei Guan

ヒカン
(ヒクワン)

(?〜?)
蜀江州都督・巴郡太守・揚威将軍・都亭侯

字は賓伯。江夏郡[黽β]の人《楊戯伝》。劉璋の女婿《楊戯伝》。名は「[カン]」とも書かれるが、字との対応から誤りだと考えられている《華陽国志校補図注》。『費[示韋]伝』に見える費伯仁(費仁)と同人であろう。

費観の族姑(おば)は劉焉に嫁いで劉璋を生んだが、劉璋はまた女を費観に嫁がせた《楊戯伝》。族子の費[示韋]が父を亡くすと、費伯仁(費観)が引きとって世話をした。劉璋が使者を出して迎えにくると、費伯仁は遊学のため費[示韋]らをつれて蜀入りした《費[示韋]伝》。

建安十三年(二〇八)、左将軍劉備が益州牧劉璋に攻撃をかけ[フ]城を占拠した。劉璋は劉・冷苞・張任・[登β]賢らを派遣して防がせたが、みな敗北して緜竹に立てこもった。劉璋の命により、費観は李厳の参軍として緜竹へ行き、諸将を監督することとなった。しかし費観と李厳は軍勢をつれて劉備に投降し、ともに裨将軍に任じられる《先主伝・華陽国志》。

劉備が益州平定をはたしたのち、費観は巴郡太守・領江州都督に昇進した《楊戯伝・華陽国志》。建興五年(二二七)、都亭侯に封ぜられ、振威将軍の官位を加増された《楊戯伝》。

『華陽国志』では建興元年に張皇后が立てられたとき、費観は群臣とともに都亭侯に封ぜられたとある。おそらく封侯が元年、将軍位の加増が五年ということなのだろう。ここで振威将軍とあるのは楊戯の『季漢輔臣賛』が揚威将軍とするのと一致しない。振威は、旧主劉璋の将軍号であって、それが費観に与えられるのは不自然に思われる。揚威が正しいのではないだろうか。

費観は交友をよくする人柄であった。都護李厳は生まれつき誇りたかく、護軍輔匡らが年齢・官位ともに李厳と匹敵するほどであったのに、李厳は彼らと親密になることはなかった。ところが費観は二十歳以上も年少でありながら、李厳と気のおけない間柄となり、まるで同年輩のようであった。費観は三十七歳で亡くなった《楊戯伝》。

『季漢輔臣賛』は、「揚威将軍の才幹は文吏・武将をも悲歎させるほどで、公務にあたっては悠然と取りしきり、殖財を図りつつも道義によって施し、順序を心得ていた」と称えている《楊戯伝》。

【参照】張任 / [登β]賢 / 費[示韋] / 輔匡 / 李厳 / 劉焉 / / 劉璋 / 劉備 / 冷苞 / 益州 / 江夏郡 / 江州 / 蜀 / 巴郡 / [フ]県 / [黽β]県 / 緜竹県 / 護軍 / 左将軍 / 参軍 / 振威将軍 / 太守 / 都護 / 都亭侯 / 都督 / 裨将軍 / 牧 / 揚威将軍 / 季漢輔臣賛

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