三国志モバイル人物伝

服虔Fu Qian

フクケン

(?〜?)
漢九江太守

字は子慎。河南[ケイ]陽の人。初名を「重」または「祗」といったが、のちに改める《後漢書儒林伝》。

若いころは清貧の暮らしをしながら大志を抱き、太学に入って学業を受けた。才能があり、論文を書くのが得意で、『春秋左氏伝解』を著したが、これは現在でも流行している《後漢書儒林伝》。これについては、鄭玄が『左伝』の注釈を構想しているとき、旅行先の宿舎で服虔に遭遇し、服虔が『左伝』に注釈を付けるつもりだと人と語りあうのを聞き、「さっきのあなたの言葉は、わたしの考えと同じものが多かった。わたしの書いたものを全てあなたに託そう」と草案を与えたという話が伝わっている《世説新語》。また何休が漢朝の事柄について六十箇条の批判をしたことに対し、『左伝』を根拠に反論を加えている《後漢書儒林伝》。

孝廉に推挙され、少しづつ昇進していった《後漢書儒林伝》。尚書侍郎から高平の県令をへて《後漢書儒林伝集解》、中平年間(一八四〜一八九)の末期、九江太守に任命された。罷免されたのち、戦乱に遭遇したため旅暮らしをした《後漢書儒林伝》。李[イ寉]・郭[シ巳]が混乱を起こしていたころ、服虔は徐州刺史陶謙らとともに朱儁を太師に推挙している《後漢書朱儁伝》。

病気のために卒去した。残した作品は賦、碑、誄、書記、連珠、九憤、合わせて十篇あまりだった《後漢書儒林伝》。

【参照】何休 / 郭[シ巳] / 朱儁 / 鄭玄 / 陶謙 / 李[イ寉] / 河南尹 / 九江郡 / [ケイ]陽県 / 高平侯国(高平県) / 徐州 / 県令 / 孝廉 / 刺史 / 尚書侍郎 / 太師 / 太守 / 春秋漢議(何休の漢朝批判) / 春秋漢議駁(服虔の何休批判) / 春秋左氏伝(左伝) / 春秋左氏伝解 / 太学

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