三国志モバイル人物伝

凌統Ling Tong

リョウトウ

(189〜217)
漢偏将軍・沛相・都亭侯

字は公績。呉郡余杭の人。

父凌操は孫策に従って破賊校尉となっていたが、建安八年(二〇三)、孫権の江夏征討に従軍して敵先鋒の軽舟を打ち破り、ただ一人で突き進んでいるうちに流れ矢に当たって戦死した。凌統は十五歳であったが、(孫権の)左右の者たちの多くが褒め称え、孫権もまた凌操が国事で死んだことを思い、凌統を別部司馬に任じ、行破賊都尉として父の軍勢を仕切らせた。

のちに山賊攻撃に従軍したが、孫権が保の屯所を打ち破って一足先に引き揚げたとき、麻の屯所には一万人が残っていた。凌統は督の張異らとともに攻囲に残り、日にちを定めて攻撃することにした。期日に先立ち、凌統は督の陳勤と酒を呑むことになった。陳勤は剛勇で気ままな性質であり、酒宴の主人役を務めたのだが、一座の面々を虚仮にしたばかりか、罰杯のやり方も道を外したものだった。凌統はその傲慢ぶりに嫌悪感を覚え、面と向かって批判し、言いなりにならなかった。陳勤は腹を立てて凌統や父凌操を罵倒し、凌統は涙を流しながら黙り込んだ。それを見て、人々は帰っていった。

陳勤は酔った勢いで凶悪になり、路上でも凌統を侮辱し続けた。凌統は堪忍袋の緒が切れて、刀を抜いて陳勤を切った。陳勤は(その傷のせいで)数日後に死んでしまった。

屯所を攻撃すべき日になると、凌統は「死ぬ以外に罪を償うすべはない」と言って、士卒を励まし、身をもって矢石に飛び込んだ。(凌統が)攻撃をかけた一角は即座に崩壊し、諸将は勝利に乗じて屯所を大破した。帰還したとき軍正に自首したが、孫権はその剛毅果断を壮快に思い、手柄を立てて罪を贖うことができるようにした。

のちに孫権が再び江夏を征討したとき、凌統は先鋒となり、可愛がっている勇者たち数十人とともに一艘の船に乗った。ずっと大軍から数十里も離れたまま航行し、右江に入ると、黄祖の将張碩を斬って水兵をことごとく川に落とした。(本隊に)戻って孫権に報告したあと、手勢を率いて全速で進航したので、(凌統と孫権の)水陸両軍が一斉に集結した。このとき呂蒙が敵水軍を打ち破り、さらに凌統が率先して敵城を叩いたので、大勝利を収めることができたのである。

孫権は凌統を承烈都尉に任じ、周瑜らとともに烏林で曹公(曹操)を迎えて打ち破らせ、そのまま曹仁を攻撃させて、校尉に昇進させた。(凌統は)軍中にあっても賢者や士人に親しく接し、財貨を軽んじて義理を重んじ、国士の風格を漂わせていた。

また皖城攻略に従軍して盪寇中郎将を拝命、沛国の相となった。呂蒙らとともに西進して(長沙・零陵・桂陽の)三郡を攻略し、益陽から引き揚げると(その足で)合肥に着陣、右部督となった。この戦いでは孫権軍が撤退することになり、先発隊が出たあと、魏将張遼らが渡し場の北岸へと急襲をかけてきた。孫権は先発隊を呼び戻そうとしたが、彼らはすでに遠くまで行っていて間に合いそうになかった。凌統は側近三百人を率いて包囲を突破、孫権を守護しつつ脱出した。

(しかし)橋はすでに敵兵によって破壊され、二枚の板で繋がっているだけだった。孫権は馬に鞭打って強行し、凌統はまた引き返して戦った。左右の者たちはみな死んで、彼自身も傷付いていた。数十人ばかり殺しつつ、孫権が落ち延びる頃合いを見計らって、ようやく引き返す。橋が崩壊して道がなかったので、凌統は具足を身に付けたまま(水中を)潜って行った。孫権は船の上から彼の姿を見付けて驚喜した。

凌統は側近たちが帰ってこないのを痛惜し、悲しみのあまり立つことさえできなかった。孫権は袖で(彼の涙を)拭いながら「公績よ、死者は帰ってこないよ。卿(あなた)さえ健在であれば、ここにおらぬ人を思うことはない」と慰めた。凌統の怪我は深く、孫権は凌統を船に置いて衣服をすっかり替えてやった。卓氏の良薬が怪我に効き、おかげで死なずにすんだのである。偏将軍に任じ、以前の二倍にあたる兵士を支給した。

ときに、同郡の盛暹という人を孫権に推薦する者がいて、大いなる節義を持った梗概の士であり、凌統以上の者であると主張した。孫権は「凌統と同等であれば充分だ」と言った。後日、盛暹がお召しを受けて夜中に到着したとき、凌統はもう横になっていたところだったが、報告を聞くと、着物を抱えて門まで出迎え、その手を引いて中へ通した。彼が善士を愛して悪意を持たなかった様子は、このようなものだった。

孫権の言葉には、凌統ほど傑出した人物はそうそういない、ましてやそれ以上の者などいるはずがない、という思いが込められている。

凌統は、山中には勇壮精悍な人々がまだ多く、威厳と恩恵によって誘い入れるべきだと言上した。孫権は東方を占拠して一応の攻撃を加えさせた上で、およそ凌統が要求するものがあれば、すべて先に供出して報告は後回しにせよ、と属城に命令を下した。

凌統は日ごろから士人を愛し、士人もまた彼を慕った。精鋭一万人余りを手に入れても(威勢を嵩にかけることなく)、本県を通行するときには(馬から下りて)徒歩で役所の門へ入り、長吏に拝謁するときも三枚の版(名刺)を携え、うやうやしく礼儀を尽くした。知人と旧交を温めるときも、恩情は以前にも増して手篤くなった。用事を済ませて出発しようとした矢先、突然病気にかかって卒去した。時に四十九歳。

『建康実録』に建安二十二年、偏将軍・都亭侯凌統が二十九歳で卒去したとあり、『三国志』本伝とは一致しない。陳景雲は言う。建安八年で十五歳だったのだから、凌統は中平六年(一八九)生まれである。凌統の死後、駱統がその軍勢を引き継いだのは夷陵戦役の以前なのだから、凌統は三十歳には達していなかっただろう。享年は二十九歳とするのが正しい《集解》。

孫権は報告を受けると牀に手をついて体を起こしたが、哀しみを抑えることができず、数日間は食膳を減らし、彼のことが話題になれば涙を流した。張承に命じて銘誄を作らせた。

【参照】黄祖 / 周瑜 / 盛暹 / 曹仁 / 曹操 / 孫権 / 孫策 / 卓氏 / 張異 / 張承 / 張碩 / 張遼 / 陳勤 / 呂蒙 / 凌操 / 右江 / 烏林 / 益陽県 / 合肥県 / [日完]県(皖県) / 魏 / 桂陽郡 / 呉郡 / 江夏郡 / 逍遥津(渡し場) / 長沙郡 / 沛国 / 保屯 / 麻屯 / 余杭県 / 零陵郡 / 右部督 / 軍正 / 校尉 / 相 / 承烈都尉 / 長吏 / 盪寇中郎将 / 督 / 破賊校尉 / 破賊都尉 / 別部司馬 / 偏将軍 / 行 / 銘誄

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