三国志モバイル人物伝

韓当Han Dang

カントウ
(カンタウ)

(?〜226)
呉都督・昭武将軍・領冠軍太守・石城侯

字は義公。遼西郡令支の人。

弓馬の巧みさ、膂力の強さによって孫堅に寵愛され、征伐に従軍して駆けずりまわった。しばしば危険を冒して敵陣を陥落させたり捕虜を手に入れたりして、別部司馬になった。韓当は勤勉労苦を重ねて功績を立てたが、軍旅の従僕として英傑たちに囲まれていたため爵位を与えられず、別部司馬になれたのは孫堅時代の末期であった。

孫策が長江を渡って三郡(丹楊・呉郡・会稽)を討伐したとき、先登校尉に昇進して兵士二千人・騎馬五十匹を授けられた。劉勲征討に従軍して黄祖を撃破し、帰還してから[番β]陽の賊徒を討伐した。楽安の県長を領すると山越どもは畏服した。

のちに中郎将として周瑜らとともに曹操を迎撃し、さらに呂蒙とともに南郡を奪取し、偏将軍・領永昌太守に昇進した。宜都の戦役(夷陵役)では、陸遜・朱然らとともに[タク]郷で蜀軍に攻撃をかけて彼らを大破、威烈将軍に転任して都亭侯に封ぜられた。曹真が南郡を攻撃したとき、韓当は東南の一郭を守った。遠方に出征したときは総帥として将兵を励まし、心を一つにして固守し、目付役を尊重して法令を遵守したので、孫権は彼を褒めていた。

黄武二年(二二三)、石城侯に封ぜられ、昭武将軍に昇進して冠軍太守を領した。のちに都督の号を付加され、敢死兵・解煩兵(精鋭部隊)一万人を統率した。五年、丹楊の賊徒を討伐して彼らを撃破したが、ちょうどそのころ病気で卒去した。

本伝では黄武二年の記事に続けて韓当の死に言及しているが、その後文に「その年、孫権は石陽を征討をした」とあり、『呉主伝』と比べると黄武五年にあたることがわかる。

【参照】黄祖 / 朱然 / 周瑜 / 曹真 / 曹操 / 孫堅 / 孫権 / 孫策 / 陸遜 / 劉勲 / 呂蒙 / 永昌郡 / 会稽郡 / 冠軍郡 / 宜都郡 / 呉郡 / 蜀 / 石城県 / [タク]郷 / 丹楊郡 / 長江 / 南郡 / [番β]陽県 / 楽安県 / 遼西郡 / 令支県 / 威烈将軍 / 県長 / 侯 / 昭武将軍 / 先登校尉 / 太守 / 中郎将 / 都亭侯 / 都督 / 別部司馬 / 偏将軍 / 解煩兵 / 敢死兵 / 山越 / 督司(目付役) / 陪隷(従僕)

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