三国志モバイル人物伝

司馬朗Sima Lang

シバロウ
(シバラウ)

(171〜217)
漢[エン]州刺史

字は伯達。河内温の人。司馬防の子、司馬遺の父、司馬懿の兄。

父司馬防は厳格な人物で、司馬朗兄弟は成人したあとでも、進めと命じられなければ進まず、座れと命じられなければ座らず、指差して問われなければ口を利かず、父子の関係は厳粛そのものであった。

九歳のとき、父の字を呼ぶ者があったが、司馬朗は「他人の親を粗末にする者は自分の親を尊敬できませんよ」と言って、その人に頭を下げさせた。十二歳で経典の試験を受けて童子郎になったが、そのとき試験官は彼の大きな身体をみて年をごまかしているのだろうと問い詰めた。司馬朗は「司馬朗の両親はともに代々大柄の家系なのです。司馬朗は若輩者でありますが高望みする気持ちはありませんし、さばを読んで早い出世を求めるなど志すものではございません」と答え、試験官を感心させた。

初平元年(一九〇)、関東で義兵が立ち上がった。故(もと)の冀州刺史李邵は野王に住まいしていたが、山岳に近かったので温に移住しようと考えた。司馬朗は李邵に告げた。「唇歯のたとえは虞・[カク]に限りません。温・野王の関係も同じで、いま移住しても朝の滅亡を(夕に)遅らせるだけのことです。それに貴君は国人の仰ぎ見るところ。盗賊どもが来たわけでないのに移住なさるなら、山沿いの県では民心を動揺させ、犯罪を招く元になりましょう。郡のために心配いたしております」。李邵は聞き入れなかった。その結果、山沿いの民衆は混乱して内地に入り、中には略奪を働く者もあった。

そのころ董卓は洛陽に残ったまま、天子を長安に遷していた。父司馬防は治書御史として西方に向かうことになったが、四方が騒擾しているので、司馬朗に家族を本県へ連れて行かせた。「司馬朗が逃亡を企てている」と告訴する者があり、逮捕されて董卓の前に引き出された。「貴卿は吾の死んだ息子と同じ歳(の仕官)なのに、大それた裏切りをされるところだったわ」と、董卓は言った。

司馬朗は答える。「明公は孤高の徳義を持って災難の時代に臨み、邪悪な者どもを一掃して賢者を推挙しておられます。これぞ虚心坦懐に配慮を巡らされている証、至高の治世は今にも勃興いたしましょう。威光は高まり功業は明らかでありますのに、兵乱が日に日に起こり、州郡は鼎のごとく沸き立ち、領内の民衆は家業に落ち着かず、住居を捨てて流浪しており、四方の関所を固めて刑罰を厳しくしても留まるところを知りません。それが司馬朗には気がかりです」。董卓「吾もそう思っておった。貴卿の言葉には重みがある」。

司馬朗は董卓の滅亡を予見した。引き留められることを恐れ、董卓の側近に賄賂を渡して財産を使いはたし、郷里に帰らせてもらった。郷里の父老に「この郡は京都に隣接しており、洛陽は東に成皋があり、北は黄河に面しておりますから、天下で義兵を起こした者は、進軍できなければ必ずこの地に駐屯いたします。ここは四分五裂の戦争の地なのです。道路が通じているうちに一族こぞって黎陽へ行くに越したことはありません。黎陽には軍勢があり、古くから姻戚関係のある趙威孫が監営謁者として兵馬を統率しておりますゆえ、主君と仰ぐには充分です」と告げた。

むかし光武帝が幽州・冀州・并州の歩騎を率いて天下を平定したので、黎陽に陣営を作り、観察黎陽謁者に精鋭の歩騎千人を統率させていたという《後漢書百官志・司馬朗伝集解》。

父老たちは故郷を恋しがり、彼に従う者はなかった。ただ同県の趙咨だけは家族を連れて司馬朗とともに出立した。数ヶ月後、関東諸州の軍勢数十万が[ケイ]陽や河内に集結したが、諸将は仲違いし、兵を好き勝手にさせて略奪したため、民衆の半数近くが死んだ。

しばらくして関東の軍勢は解散し、太祖(曹操)が濮陽において呂布と対峙した。司馬朗は家族を連れて温へ帰ったが、その年、大飢饉に遭遇した。司馬朗は宗族をいたわって若者を教育し、世が衰えても家業をおろそかにしなかった。

二十二歳のとき太祖に召されて司空掾属となり、成皋の県令に任じられた。病気のため退官したが、また堂陽の県長に復帰した。その統治は寛容で恵み深く、鞭打ちの刑も行わないのに民衆は禁令を犯さなかった。かつて都内を充実させるために領民が移住させられたが、のちに県が艦船建造を割り当てられたとき、間に合わせられないのではないかと心配して、移住民たちが手を取り合って内緒で帰り、仕事を手伝った。司馬朗はそれほど愛されていたのである。

元城の県令に昇進したのち、中央に入って丞相主簿になった。司馬朗は「天下が崩壊したのは秦が五等の制度を廃止して郡国に軍備がなくなったからだ。いま五等を復活させるのは不可能だが、州郡に軍を持たせて内外に備えることは可能であり、計略としても優れている」と主張し、その提議は採用された。

また「井田の制度を復活すべきである。むかしは民衆それぞれが家業を代々受け継いでいて、途中で取り上げることが困難なまま現在に至っている。今日では大乱の後ということで民衆が分散し、土地の持ち主がおらず公田となっておるゆえ、この機会を利用して復活させるべきだ」とも主張したが、これは認められなかった。

ちくま訳では誤って「それらの意見は施行されないままであった」とするが、『杜恕伝』には「刺史には兵を宰領させることなく、民政に専心させるべきだ」とあり、施行されないのは井田制だけであったと分かる《集解》。

[エン]州刺史に昇進した。教化は大いに行われ、百姓たちは彼を称賛した。身は軍隊にあっても、いつも粗衣粗食に耐え、倹約を心がけて下の者を導いた。日ごろ人物鑑定と書籍を愛好し、郷里の人李覿らが名誉を集めていたときも、司馬朗はいつも彼らへの軽蔑を露わにしていた。のちに李覿が失脚したので当時の人々は感服した。

鍾[ヨウ]・王粲は論文を著して「聖人でなければ太平の世を作れない」と主張したが、司馬朗は「伊尹・顔回といった人たちは聖人ではないが、もし数世代続いたなら太平の世を作ることができる」と反論した。のちに文帝(曹丕)は司馬朗の主張を評価し、秘書に命じてその文章を記録させた。

曹丕が即位したのは司馬朗の死後のことである。

建安二十二年(二一七)、夏侯惇・臧霸らとともに呉を征討し、居巣に着陣した。軍中で疫病が大流行したため、司馬朗はみずから視察してまわり医薬を与えてやったが、病気にかかり、卒去した。ときに四十七歳。司馬朗は死を迎えたとき将兵に告げた。「刺史は国恩を厚く蒙り、万里の彼方を監督することになったが、僅かな功績さえ立てられぬままこの疫病にかかってしまった。もはや自分を救うことさえままならず国恩に背くことになってしまった。身(わたし)が死んだら麻の衣と幅巾を着せ、季節に応じた衣服で殯(かりもがり)をしてくれ。吾が志に背くでないぞ」。州の人々は彼を偲んだ。

【参照】伊尹 / 王粲 / 夏侯惇 / 顔回 / 司馬遺 / 司馬懿 / 司馬防 / 鍾[ヨウ] / 曹操 / 曹丕 / 臧霸 / 趙威孫 / 趙咨 / 董卓 / 董卓亡児(董卓の死んだ息子) / 李邵 / 李覿 / 劉協(天子) / 呂布 / [エン]州 / 温県 / [カク] / 河内郡 / 関東 / 冀州 / 居巣県 / 虞 / [ケイ]陽県([ケイ]陽県) / 元城県 / 呉 / 黄河 / 秦 / 成睾県(成皋県) / 長安県 / 堂陽県 / 濮陽県 / 野王県 / [各隹]陽県洛陽県) / 黎陽県 / 監営謁者 / 県長 / 県令 / 司空掾属 / 刺史 / 丞相主簿 / 治書御史 / 童子郎 / 秘書 / 監試者(試験官) / 五等 / 試経(経典の試験) / 人倫(人物鑑定) / 聖人 / 井田 / 論(論文)

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