三国志モバイル人物伝

劉敏Liu Min

リュウビン
(リウビン)

(?〜?)
蜀中書侍郎・左護軍・揚威将軍・成都尹・雲亭侯

零陵郡泉陵の人《蒋[王宛]伝》。劉優の孫、蒋[王宛]の外弟《蒋[王宛]伝・同集解》。

祖先はもともと彭城の人であったが、曾祖父劉綽が零陵太守に任じられて、住まいを移したのである。その子が劉優、劉優の孫が劉敏である。劉敏は弱冠にして蒋[王宛]とともに名を知られ、孝廉に推挙された。後主の御代、侍御史に任じられて検察にあたり、名声実力ともに朝廷内で称賛された《蒋[王宛]伝・同集解》。

行右護軍・偏将軍となって丞相諸葛亮の北征に従事、李厳の職務怠慢が明らかになると、諸葛亮らと名を連ねてそれを告発した《李厳伝》。

のちに左護軍・揚威将軍に昇進し、鎮北大将軍王平とともに漢中の重鎮となった《蒋[王宛]伝》。延煕七年(二四四)春、魏の大将軍曹爽が歩騎十万人余りを率いて駱谷から侵入してきたとき、諸将は「漢城・楽城に楯籠って援軍を待つべし」と主張した《王平伝》。

王平は「もし関所が陥落すれば大変なことになる。劉護軍・杜参軍を興勢に入れ、王平が後詰めしよう」と述べ、劉敏もまた「男女が野にあって農務に励んでいるのだ。敵の侵入を許しては一大事である」と言い、麾下の軍勢を率いて王平とともに興勢へ入り、百里余りにわたって多数の旗幟を盛んに立てた。(こうして時間を稼ぐうちに)大将軍費[示韋]が到着したので、魏軍は撤退した《王平・蒋[王宛]伝》。

劉敏は功績によって雲亭侯に封ぜられ《蒋[王宛]伝》、中書侍郎を付加されて成都尹を拝命した《同集解》。

公孫述が皇帝を僭称したとき蜀郡を成都尹に改めたというが、蜀漢の時代には見えず、また西晋にもこの官職はなかった。あるいは李氏成漢の官職であろうか。なお『永州府志』には「草書に巧みであった」とあるという《古今図書集成》。

【参照】王平 / 諸葛亮 / 蒋[王宛] / 曹爽 / 杜祺(杜参軍) / 費[示韋] / 李厳 / 劉綽 / 劉禅(後主) / 劉優 / 雲亭 / 漢中郡 / 魏 / 興勢 / 蜀郡(成都尹) / 成固県楽城) / 泉陵県 / [ベン]陽県漢城) / 彭城国 / 陽平関(関所) / 駱谷 / 零陵郡 / 右護軍 / 孝廉 / 左護軍 / 参軍 / 侍御史 / 丞相 / 成都尹 / 太守 / 大将軍 / 中書侍郎 / 鎮北大将軍 / 亭侯 / 偏将軍 / 揚威将軍 / 行

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。