三国志モバイル人物伝

婁圭Lou Gui

ロウケイ

(?〜?)

字は子伯。南陽の人《崔[王炎]伝》。『三国志演義』では「夢梅居士」の名で登場する。

若いころからの野心家で、「男たる者、この世に生まれたからには、軍勢数万・騎馬千匹を手に入れて名声を顕したいものだ」と歎息して朋輩に嘲笑されていた。また曹操とも付き合いがあった《崔[王炎]伝》。のちに亡命者を匿ったため捕縛され、その罪は死刑に相当したが、牢獄を乗り越えて脱出することができた。追捕の手は急であったが、婁圭は服を着替えて追っ手を助けるふりをしたので、役人はそれに気付かず、とうとう逃げおおせることができた《崔[王炎]伝》。

初平年間(一九〇〜一九四)、天下に義兵が巻き起こると、婁圭も荊州の北境あたりで軍勢を集めて劉表と手を組んだ《崔[王炎]伝》。しばらくして三輔地方で動乱が起こり、飢えに苦しんだ人々が武関を越えて南陽に入ってくると、婁圭は彼らを客人として出迎えた。ただ扶風で亭長を務めていた王忠だけは、婁圭のもとに行きたくなかったので、仲間数人を従えて彼を攻撃し、婁圭の兵士を奪い取っている《武帝紀》。

のちに曹操のもとに身を投じ、彼の信任を得て大将となったが、軍勢を指揮することはなく、いつも議論に出席して軍事・国政に携わっていた《崔[王炎]伝》。河北が平定されたときは、曹操に付き従って冀州まで赴いた《崔[王炎]伝》。

建安元年(一九六)、陝に駐屯していた張済が食糧を求めて南陽郡に来たところ、南陽郡民が彼を射殺したが、劉表は彼の死を喜ばず、その子張繍と手を組んだ。張済を殺したのが婁圭だとすれば、彼が曹操を頼ったのは張繍の報復を恐れて逃亡したものと理解できる。

劉表が亡くなったので曹操は荊州に進軍したが、劉表の子劉[王宗]が彼を出迎え、割り符を持って降服を申し出た。諸将はみな真意を疑ったが、曹操が婁圭に質問すると、婁圭は「天下は混乱して、誰もが(刺史・太守任官の)王命を貪って尊大に振る舞っております。いま割り符を持って来たのは、きっと真心からでしょう」と答えた。曹操は「大変よろしい」と言って軍を進めた《崔[王炎]伝》。

曹操は婁圭に格別の秩禄を与え、その家には千金が積み重ねられた。(曹操は)「婁子伯(婁圭)は孤(わたし)より富み栄えておる。ただ権勢が及ばないだけだ」と言っていた《崔[王炎]伝》。

建安十六年(二一一)閏八月、曹操は馬超・韓遂を討伐するためたびたび渭水を渡ろうとしたが、そのつど馬超の騎兵が攻撃してくるので陣営を立てることができなかった。しかも地面には砂が多く、防塁を築くこともできなかった。そこで婁圭は「いま空の寒いときで、砂を盛って城を造り水を注ぎかければ、一夜にして完成しますぞ」と曹操に告げた。曹操はこれを採用して、あらかじめ水を運ぶための嚢を沢山作っておき、真夜中に渭水を渡って城を作った。明け方までには城を築きおえ、軍勢全てが渭水を渡ることができた。馬超・韓遂は何度も戦いを挑んだが勝つことができず、曹操が虎騎を放って挟み撃ちにし、彼らを大破した。馬超・韓遂は涼州に逃走した《崔[王炎]伝》。

馬超らを打ち破ったのは婁圭の功績が多大であり、曹操は常々「子伯の計略には孤でも及ばぬ」と感歎していた《崔[王炎]伝》。

のちに曹操は子供たちと一緒に外遊することがあったが、婁圭もしばしば随行した。ある日、婁圭と習授が同じ車に乗って出かけたとき、曹操父子が(宮殿を)出るところに行き会った。婁圭は「この家の父子は今日を楽しんでいるようだな」と言った。習授が「父子がこのような有様であるとは、なんと素晴らしいことか!」とつぶやくと、婁圭は「(下克上の)世界に生まれたのだから自分でそうなればよい。それなのに他人をただ見ているだけとはな!」と言い捨てた。その発言を習授が告発したので、曹操は彼を逮捕して誅殺した《崔[王炎]伝》。

【参照】王忠 / 韓遂 / 習授 / 曹操 / 馬超 / 劉[王宗] / 劉表 / 渭水 / 河北 / 冀州 / 荊州 / 三輔 / 南陽郡 / 武関 / 扶風郡 / 涼州 / 大将 / 亭長 / 三国志演義 / 虎騎 / 節(割り符)

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。