三国志モバイル人物伝

栗成Li Cheng

リッセイ

(?〜193)
漢魏郡太守

「栗攀」ともある《董昭伝》

初平四年(一九三)三月上巳、冀州牧袁紹が公孫[王贊]征討の帰途、薄洛津において賓客たちを集めて大宴会を催していた折り、魏郡の兵士たちが叛逆して黒山賊于毒らと手を結び、総勢数万人で[業β]城を襲撃した。太守栗成はこれらに殺害された《袁紹伝・後漢書同伝》。

『三国志』袁紹伝に引く『英雄記』ではこの魏郡占拠を界橋会戦と同時期に起こった事件のように記載し、同武帝紀でもこの事件を初平二年に編入し、曹操が黒山賊と戦って東郡太守に任じられたとしている。ところが『後漢書』袁紹伝では界橋会戦を同二年冬のこととしたうえで、この事件を四年三月上巳に編入しており、日付の詳細さからも信頼できる根拠に基づいているように見える。確かに、その前年に[エン]州牧を自称していた曹操が改めて東郡太守に任じられるはずはない。しかしながら『英雄記』に「公孫[王贊]を破ったのち軍勢をまとめて南進し、薄洛津に着陣した」とあるのは薄洛津が界橋の西方にあることと矛盾しており、さすれば『後漢書』の言うように北征からの帰還途上と見るのが正しいと考えられる(ただし『水経注』では易京遠征からの帰還途上とする)。やはり魏郡占拠は初平四年だったのだろう。黒山賊による作戦行動は二度にわたって行われ、おそらく武帝紀に魏郡の陥落したのが初平二年とあるのは同四年の事件と混同しているのではないだろうか。初平四年、[エン]州刺史金尚を擁した袁術は[エン]州に進出するとともに黒山賊と手を結んでいたと記されており、魏郡占拠は彼に連動した動きではないかと推測される。

【参照】于毒 / 袁紹 / 公孫[王贊] / 魏郡 / 冀州 / [業β]県 / 薄洛津 / 太守 / 牧 / 黒山賊 / 上巳

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