三国志モバイル人物伝

李休Li Xiu

リキュウ
(リキウ)

(?〜?)
魏議郎

字は子朗。南陽郡の人。李勝の父《曹真伝》。

李休は智略の持ち主で、かつて張魯が鎮北将軍(?)になったとき、司馬として南鄭に住まいを移した《曹真伝》。

張魯は鎮北将軍になったことがない。鎮南将軍の誤りかとも思われるが、張魯がこれに任命されたのは曹操に帰順したのちのことであり、年代が矛盾する。張魯の漢中にいたころの官職は鎮民中郎将《張魯伝》、あるいは鎮夷中郎将であった《後漢書劉焉伝》。

そのころ漢中で甘露が降り注いだことがあり、張魯が精鋭数万人を抱え、四方も堅固であったことから、李休は「赤気は長いあいだ衰えておりますので、黄家が勃興するはずです」と言上し、張魯に王号を称えさせようとした《曹真伝》。しかし張魯は閻圃の諫言をいれて、賛成しなかった《張魯伝》。

発言内容からすれば帝号を称えさせようとしたことになるが、『張魯伝』では「漢寧王」に奉ろうとしたとある。さきざきの帝位簒奪のため、まず王位から窺ったのであろうか。

張魯が曹操に敗れたとき、李休は彼に帰順を勧めた功により関内侯の爵位を賜り、散官騎従に任命され、[業β]へ参詣した《曹真伝》。黄初年間(二二〇〜二二七)に上党・鉅鹿の太守を歴任したのち、老年を理由に召し返され、議郎の官を拝命した《曹真伝》。

張魯に帰順を勧めた功績というが、その功績の具体的内容は知られていない。あるいは別項李伏が同人であって、姜合の予言によって張魯に帰服を勧めたことを指しているのかも知れない。

【参照】閻圃 / 曹操 / 張魯 / 李勝 / 漢中郡 / [業β]県 / 鉅鹿郡 / 上党郡 / 南鄭県 / 南陽郡 / 関内侯 / 議郎 / 散官騎従 / 司馬 / 太守 / 鎮北将軍

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