三国志モバイル人物伝

閻圃Yan Pu

エンホ

(?〜?)
魏建節将軍・平楽亭侯

漢寧太守張魯の功曹従事《張魯伝》。巴西郡安漢の人。閻璞の父、閻[糸贊]の祖父《晋書閻[糸贊]伝》。父は閻穆であろうか《新唐書世系表》。

ある人が地中から玉印を掘り当てて張魯に献上した。そこで臣下たちは張魯を漢寧王に推し立てようとしたが、閻圃は諫めて言った。「漢水一帯の民衆は十万戸もあり、四方は堅固、財産豊かで土地も肥えております。最善なら天子をお助けして斉桓公・晋文公となり、次善でも竇融となられれば富貴を失うことはございません。いま勅命を称して任免を行うならば、斬首の憂き目にあっても仕方ありません。あわてて王号を称すれば先々の禍根となりますぞ」《張魯伝・後漢書劉焉伝》。

建安二十年(二一五)、張魯は陽平が陥落したと聞き、曹操軍に降服しようとした。閻圃は「いま追いつめられたからと言って出ていけば功績を軽んじられます。巴郡に楯籠って、そのあと礼物をお贈りなされば、功績は多大に評価されるでしょう」と勧めた。曹操は南鄭に入ると、張魯が財宝を焼いていなかったことを知り、同時に彼の善意を理解していたので、使者をやって彼を安心させた《張魯伝・後漢書劉焉伝》。

張魯が閻圃の勧めで曹操に帰順すると、閻圃は列侯に封ぜられ《張魯伝・晋書閻[糸贊]伝》、また馬超の側室董氏を賜った《馬超伝》。帰順後は河南新安県に住まいしたという《新唐書世系表》。

延康元年(二二〇)、閻圃は「建節将軍・平楽亭侯」の肩書きで群臣とともに署名し、漢朝から受禅して帝位に上るべしと魏王曹丕に勧めている《文帝紀集解》。黄初年間(二二〇〜二二七)、曹丕は即位したのち閻圃の爵邑を加増し、手厚い礼をもって宮中に招いた。閻圃は、それから十年余りして病死した《張魯伝》。

曹丕に受禅を勧める「魏公卿上尊号奏」では、雑号将軍が上下二つのグループに分かれて署名している。上位のものは漢朝の将軍、下位のものは魏国の将軍だろう。閻圃は下位グループに属している。また、ここでは「平楽亭侯」としているが、『晋書』では「平楽郷侯」とする。魏が受禅したのち爵位を引き上げられたのだろうか。

【参照】閻[糸贊] / 閻璞 / 閻穆 / 晋文公 / 斉桓公 / 曹操 / 曹丕 / 張魯 / 董氏 / 竇融 / 馬超 / 安漢県 / 河南尹 / 漢 / 漢水 / 漢中郡(漢寧郡) / 魏 / 新安県 / 南鄭県 / 巴郡 / 巴西郡 / 平楽亭 / 陽平 / 王 / 郷侯 / 建節将軍 / 功曹従事 / 太守 / 亭侯

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