三国志モバイル人物伝

浩周Hao Zhou

コウシュウ
(カウシウ)

(?〜?)
魏都尉

字は孔異。上党の人《呉主伝》。

建安年間(一九六〜二二〇)に出仕して蕭の県令となり、のちに徐州刺史に昇った。左将軍于禁の護軍を兼任したが、于禁軍が潰滅したとき関羽の捕虜となり、孫権が関羽を捕らえたとき浩周もまた彼の手に渡った。浩周は極めて鄭重な礼をもって遇せられた《呉主伝》。

建安二十五年(二二〇)、曹丕が魏王に即位すると、孫権は浩周を東里袞とともに魏に帰し、へりくだった言葉で和睦を申し入れた。曹丕の下問に、東里袞が「彼を屈服させることはできますまい」と答えたのに対し、浩周は「孫権はかならずや臣従するでしょう」と答えたので、曹丕は浩周の言葉には根拠があるのだろうと思って喜んだ《呉主伝》。

その歳の冬、曹丕は漢朝からの禅譲を受けて帝位に上った。翌年十一月、孫権を呉王に封じたとき、都尉浩周を副使に立てた。浩周が「呉王がご令息を入朝させないのではないかと陛下は疑っておいででしたが、浩周が一族百人を質にかけてお約束して参りました」と告げると、孫権は「浩孔異よ、卿(あなた)は家族百人で私をかばってくれた。私は何と言えばいいのだろう」と言って襟を涙で濡らした。浩周が帰国する際にも、太子孫登を人質として魏に差し出すことを、天を指差して誓ったのだった《呉主伝》。

しかし浩周が帰国したのち、孫権はいろいろと言い訳をして、翌年八月になっても孫登を人質として差し出さなかった。曹丕ははじめ「彼は、十二月までに我が子を張昭・孫邵の子息とともに入朝させると言っている。孫権が異心を持っていない明証である」と言っていたが、結局、孫権には子供を差し出すつもりなどなかったのである《呉主伝》。

黄武元年(二二二)九月、ついに曹丕は大軍を催して呉を攻撃した。以来、曹丕は浩周を遠ざけ、生涯用いようとはしなかった《呉主伝》。

【参照】于禁 / 関羽 / 曹丕 / 孫権 / 孫邵 / 孫登 / 張昭 / 東里袞 / 漢 / 魏 / 呉 / 蕭県 / 上党郡 / 徐州 / 王 / 県令 / 護軍 / 左将軍 / 刺史 / 太子 / 都尉 / 任子(人質) / 領(兼任)

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